ローマ5章・愛の神がなぜ罪と死を人間に与えたのですか

「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように―。」(ローマ5:12)


 ある人は、エホバが愛の神なのに、なぜ最初の人間アダムとエバの行動のために罪と死を人間に与えられたのか、それは残酷で厳しいのではないかと考えます。どうして神は人間に罪と死というとても大きな罰を与えて人間を苦しめるのだろうかと考えます。


 この考え方は、交通ルールを決めてその交通ルールに違反することがあれば、罰することのある当局にすべての交通事故の責任があるとみなすのに似ています。また、当局の課す罰が残酷で厳しく、当局は人々を苦しめているとみなすのに似ています。


 もちろん、交通事故の責任は、交通ルールを決める当局にあるのではありません。交通事故の責任は、交通ルールに違反するすべての人にあります。交通事故は、交通ルールが決められているから存在するのではありません。交通ルールに従えば、交通事故はなくなります。交通事故は、交通ルールの違反者に罰を与える当局に責任があるわけではありません。交通ルールとそれに違反した時にもたらされる罰は、交通事故を起こさないため、人々の命と安全のために設けられています。


 エホバはアダムとエバに善悪の知識の木の実からとって食べてはならないという律法を与えられました。その命令は、人間が神の支配権を尊重すべきことを意味していました。「それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」とエホバはアダムに言われました。(創世記2:17)


 これは、アダムが木の実を食べることの罰でしたが、またその必然的な結果でもありました。エホバ神は、人類の命と福祉のために、人類がご自分の支配権に服する必要があることをご存知でした。その必要性を示すために、エホバはアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないという律法を与えられました。


 アダムとエバがエホバの命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べた時、エホバがアダムとエバに与えた直接的な罰は、エデンの園から追い出すことでした。(創世記3:23)エホバはアダムとエバを即座に処刑することもできましたが、そうされませんでした。エホバは、アダムとエバが神に服さなかったらどういうことになるかを経験するに任されました。それは、たいへん軽い罰だったと言えるのではないでしょうか。





 アダムとエバはエホバの親しい指導を受けられなくなりました。アダムとエバにそれ以降起こることは、エホバの支配権から独立してエホバの親しい指導を拒む時、どんな結果になるかを示していました。


 アダムはサタンの言葉に欺かれませんでしたが、エバは欺かれたと聖書に書かれています。(テモテ第一2:14)ですから、エバは、サタンの言葉を信じて、エホバの支配権に従わずエホバから独立しても、死ぬことはなく、かえって自分たちにとって状況は良くなると考えていたことでしょう。(創世記3:4,5)


 しかし、神の親しい指導を受けられなくなった結果、アダムとエバは年を取って死んでしまいました。(創世記5:5)アダムとエバが死ぬことは、確かに、彼らがエホバに背いたことへの罰と言うこともできましたが、それは、アダムとエバがエホバからの親しい指導を退け、エホバから独立するならば、どんな結果になるかを示していました。人間は、神の親しい指導を退け、神から独立して永遠に生き続けることはできませんでした。


 このことは、人間は、エホバに完全に従順を示し、エホバと親しい関係を維持する時にのみ、幸福のうちに永遠に生き続けられるということを示しています。


 アダムの子孫は、アダムとエバから不完全さと罪を受け継ぎました。そのために、生まれつきエホバに不従順になる傾向があり、病気になりやすい弱さを持っています。(詩編51:5)その結果、アダムの子孫は、最終的には死にます。アダムの子孫の中のある人々は、罪をさらに犯して神の道徳基準を無視した行動をとり、自分と他の人々に苦しみを増し加えました。


 それで、アダムがエホバに従順であり、またアダムの子孫の各々がエホバに従順であるならば、今日人類が経験しているような苦しみは経験しないですむはずでした。苦しみは、エホバの支配権と神の律法に不従順な人間が自らもたらしています。罪と死という苦しみは人間が自らもたらしており、人間に責任があるということを意味しています。


 それで、ローマ5章が述べているように、聖書は一人の人つまりアダムによって罪が世に入ったと述べています。ですから、罪と罪による死はエホバがもたらしたものではありませんでした。また、すべての人はさらに罪を犯して自らに罪と苦しみを増し加え、自らに死をもたらしています。


 それは、交通事故とそれによる苦しみと死を交通ルールの違反者がもたらしているのと同じです。交通ルールを設ける当局に交通事故の責任がないのと同じように、エホバに人間の罪と死の責任はないと言えます。


 当局は人々に交通ルールを守らせて交通事故を減らすように努力します。エホバ神も同じようにアダムの子孫が苦しみと死から救われるように対策を取られるでしょうか。


 アダムが罪を犯したために、アダムの子孫は、生まれつき罪と不完全さを受け継いでいます。アダムの子孫は、生まれつきの状態では、永遠の命を受けられない状態にあります。このことは、エホバ神がアダムの子孫に望まれたことではありませんでした。エホバ神はアダムの子孫が救われて、永遠に生きられるようになることを望んでおられます。(テモテ第一2:4)それで、エホバはアダムの子孫が罪と死から救われて完全な人間になるように援助することを計画されています。


 エホバは、そのために、ご自分の最愛のみ子の贖いという犠牲を払われました。(ヨハネ3:16)また、アダムの子孫を罪と死から救い出すために援助するための神の政府も取り決められました。これが神の王国です。(マタイ6:10)このような備えは、エホバ神のアダムの子孫である人類に対する愛を証明しています。


 エホバは愛の神であり、人間が罪と死によって苦しむことを望んでおられません。人間が苦しんでいるのは、神の設けられた律法に違反し、神の支配権を退けたからです。人間が罪と死に苦しんでいるのは、人間の行動に責任があります。しかし、エホバはその愛により、人間がご自分の支配権に戻る道を開いておられます。私たちは聖書を読み、エホバとの親しい関係を築いてエホバ神の支配権に今から服することができます。


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