マタイ12章・許されない罪とは何ですか

「人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。」(マタイ12:31)


エスは、許されない罪があると言われました。人はあらゆる種類の罪を許されますが、霊に対する冒とくは許されないと言われました。許されない罪である霊に対する冒とくとはどんな罪なのでしょうか。私たちは、どのように許されない罪を犯さないようにすることができますか。


まず、許されない罪とはどんな罪でしょうか。イエスは、当時の敵対者たちについて、もし、彼らに対してイエスが話したり、業を行なったりしていなかったら、彼らは罪がなかったでしょうと言われました。ところが、彼らは神の霊がイエスの上に働いた結果であるイエスの強力な言葉や業を見たり聞いたりして、その上、イエスを退け反対しました。そして、イエスの敵対者たちは、イエスに関して、「彼には汚れた霊がついている。」と言いました。(マルコ3:29)イエスの敵対者たちはイエスの言葉や奇跡の業など、神の聖霊の働きの表明を見聞きしました。その上で、それらを故意に悪意を抱いて、悪霊の働きに帰しました。


このことは、ひとつには、聖霊に対する冒とくというのは、知識がより大きな責任をもたらすこと、聖霊の働きの表明に対して悪意を抱いて故意に逆らうことを意味していることを示しています。一世紀の宗教指導者たちは、聖霊の働きの結果である奇跡も見たので、信仰を抱くべき根拠をしっかりと持っていたでしょう。しかし、それでもそれを悪霊の働きに帰しました。


しかし、今日、イエスは存在しておられませんし、私たちは、イエスの言葉や奇跡を見聞きすることはありません。では、どのようにして、聖霊に対して、冒とくの罪を犯すのでしょうか。


私たちは聖霊の働きである奇跡を見ることはありませんが、それでも、今日、聖霊は働いています。聖霊は今日でも、み言葉を通して、また神の言葉を語る奉仕者を通して、とりわけ聖書のイエスの教えを通して、ある程度、働いていることでしょう。


聖書は「神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい。」と戒めています。(エフェソス 4:30)聖霊に対する罪にも軽重があるのでしょう。神の聖霊を悲しませるとは、まだ聖霊に対する冒とくほどではありませんが、ある程度聖霊の導きに逆らっていることを意味しているでしょう。聖霊の導きに逆らい続けるならば、ひいては聖霊に対する冒とくの罪を犯すという結果になりえます。


反対に、「聖霊の喜びを抱きながらみ言葉を受け入れ(る)」ことは、聖霊の働きに調和していることになります。(テサロニケ第一1:6)み言葉聖書の述べていることを受け入れることは、聖霊を悲しませないように、私たちを守るでしょう。


聖霊の導きに従順であれば、イエスの教えの重要性を認め、その教えに従う努力をします。「聖霊によるのでなければ,だれも,『イエスは主である!』とは言えない」と聖書は述べています。(コリント第一12:3)イエスに敬意を払いその教えに従う努力を払うことによって、聖霊に対する罪を犯さないように守られるでしょう。聖書はまた、今日、大いなるモーセイエス・キリストのみ言葉を通して与えられる指導に逆らうことは、聖霊に逆らうことになることを示しています。(イザヤ63:10)


それで、み言葉を聞き、聖書の預言の成就を見て、その上で、神のみ言葉聖書を退けるならば、聖霊の働きに逆らい続けることになります。それは、ひいては聖霊に対する罪を犯し、聖霊を冒とくすることにつながるでしょう。


また、「淫行を避け」、「貪欲な性欲のままに[歩ま]ない」という原則に従わないならば、神を無視することになり、「無視する者は,人間ではなく,ご自分の聖霊をあなた方の中に入れてくださる神を無視しているのです。」と述べられています。ですから、性道徳に関する神の律法に違反することは、神の聖霊の働きに逆らうことになるでしょう。(テサロニケ第一4:3−8)


しかし、私たちは罪に陥ってしまった時は、あきらめずにエホバが聖霊を取り去らないように、エホバに懇願することができます。ダビデは、性の不道徳に陥った時、「あなたの聖霊を,どうかわたしから取り去らないでください。」と祈りました。(詩編51:11)たとえ、自分の弱さと不完全さのために罪に陥ってしまった時も、悔い改めてエホバに罪の許しと聖霊を祈り求める時、私たちは聖霊に対する冒とくの罪を犯したことにはならないでしょう。



prayer 18 by khrawlings
罪を犯しても神に許しを求めているなら許されない罪を犯していることにならない



しかし、私たちが罪の許しをエホバに求めることをせずに、神の道から離れ落ちてしまうなら、聖霊に対する罪を犯しえます。なぜなら次のように述べられています。「神の優れた言葉と来たるべき事物の体制の力とを味わっておきながら,なおも離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです。」(ヘブライ6:4〜6)


ヘブライ 10章26,27節にも,「真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されて(いない)」と述べられています。(ヨハネ第一 2:1;3:4,9,10)ですから、真理の正確な知識を受けた後、罪を故意に習わしにする人の心はかたくなになって、罪を後悔して、悔い改めることがなくなるかもしれません。結果として、その人は許されないことになります。


それで、許されない罪とは、当人が悔い改めて立ち返る気持ちがなくなることを意味しているでしょう。ですから、私たちがエホバとの良い関係を求める気持ちがあれば、許されない罪を犯していることにはなりません。


言うまでもなく,そのような罪人の心の態度に関する最終的な裁き主は神です。(エレミヤ 7:16。使徒 7:60) 聖書時代に、ありとあらゆる罪を犯したユダの王マナセも許され、クリスチャンの迫害者であったサウロも許されました。それで、私たちは誰が聖霊に対する冒とくである許されない罪を犯したかを判断することはできないでしょう。


しかし、私たちは、自分に関して聖霊の働きに逆らい続けて悔い改めることのできない心の状態になって許されない罪を犯さないように、エホバとの良い関係を求めていきましょう。


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