モアブ碑石は聖書の正確さを裏付ける

聖書は多くの考古学的証拠によって裏付けられています。モアブ碑石(メシャ碑文)はそのひとつです。古代のモアブの王メシャは、イスラエルの支配を打ち破ったことを記念し、その神ケモシュのためにモアブ碑石を建てました。それはほぼ3,000年前の碑文で、19世紀に死海の東にある現代のヨルダンのディボンの遺跡の中で発見されました。モアブ碑石は、聖書の歴史や場所の多くの点を裏付けています。また、モアブ碑石は、神のみ名が使われている聖書以外の最古の記録でもあります。



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モアブ碑石が発見された古代のディポンと現代のディボン
 

モアブ碑石は、玄武岩でできており、頂上部が丸く、高さは112センチ、幅は71センチです。石碑の本文はヘブライ語と同系統の言語であるモアブ語で、34行刻まれています。


モアブ碑石は一度壊されましたが、復元され、現在もパリのルーブル美術館に展示されています。また、ロンドンの大英博物館でも、その複製品を見ることができます。



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モアブ碑石(メシャ碑文)は聖書の真実さを証しています



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モアブ碑石が展示されているルーブル美術館



モアブ碑石の内容は、列王第二 3章に記されている出来事のあった時期の事柄であるとされています。聖書によると、モアブの王メシャは、イスラエル王国に隷属していた時、アハブ王に子羊10万頭と、毛を刈っていない雄の羊10万頭を貢ぎ物として支払いました。しかし、アハブが死ぬとすぐ、メシャはイスラエルの王アハブの子アハジヤに反逆しました。(列王第二 1:1; 3:4,5)しかし、アハジヤは長く支配せずに死に、その後を兄弟のエホラムが継ぎました。


エホラムは、メシャを再び服従させるために、ユダおよびエドムの王と同盟し、モアブを攻めました。モアブ人は、状況を誤解して、イスラエルとユダとエドムの同盟軍が同士討ちをしたのだと考えました。(列王第二 3:5‐11,16-20)モアブ人は油断して、イスラエルの陣営に入りましたが、敗走させられました。イスラエルは追撃して、モアブ人の諸都市を滅ぼしました。(列王第二3:21-25)


それでメシャは、剣士700人を引き連れ、エドムの王のところに突入しようとしましたがそうすることができませんでした。それで、「彼は、自分に代わって治めることになっていた長子を取り、その子を城壁の上で焼燔の犠牲としてささげ」ました。何らかの理由で「イスラエルに対する大いなる憤りが臨み」、攻囲は放棄されました。(列王第二 3:26,27)


もしかしたら、エホバ神は、イスラエルとユダとエドムの同盟に対して不興を表されたのかもしれません。聖書の他の箇所、エゼキエル書で、エホバはイスラエルが他の国家に頼ったことを売春として非難されているからです。(エゼキエル23:5)聖書は「モアブ」の神が「ケモシュ」であると述べています。(列王第一11:7,33)


一方、メシャはその碑文の中で,自分が非常に信心深いこと、都市や街道を作ったこと、そして、オムリの子らの時代に、40年間続いたイスラエルの支配を撃ち砕いてイスラエルに対して勝利を収めたことについて誇っています。アハブは、オムリの子です。(列王第一16:28)そしてこの点で、すべての誉れを自分の神ケモシュ(カモシュ)に帰しています。


日本人の考古学者による碑文の訳文がネットで公開されています。「モアブの王メシャの石碑 和田幹夫」です。確認されてみてください。その中にも、「イスラエルの王」「オムリ」の名前と、「アタロト、ネボ、アロエル、マヘダバ、ディボン、バト・バアルマオン、ヤハツ、キルヤタイン、ベツェル、バアルマオン、ハウロナイン(ホロナイム)、バト・ディブラタイン(ベト・ディブラタイム)、キリヨト(ケリヨト)」の地名が確認できます。それらの地名は聖書に記載されています。(民数記32:34,37,38。ヨシュア 13:9,17‐19,20:8。イザヤ 15:5。エレミヤ 48:22,24)


さらに、モアブ碑石の中でモアブの王は自分を「モシャ」と言っています。ある聖書の訳文では、このモアブの王は「メシャ」となっていますが、聖書の訳のひとつギリシア語70人訳では、「モサ」となっています。また、碑文の中に「イスラエルの王」「オムリ」の名前が出てきます。そして、彼は、オムリとその子の時代、すなわち聖書によればアハブの時代にモアブがその支配下に置かれていたことを認めています。


聖書が述べていることと、メシャの宣伝調の碑文とは少し異なっています。でも、多くの点で聖書が述べることをモアブ碑石は裏付けています。モアブ碑石は聖書に登場する多くの人名と場所が実際に存在したことを示しています。


しかし、碑文は、モアブの神ケモシュと王メシャに栄光を帰するものであったため、モアブの王は自分の敗北や息子を犠牲にしたことは省いています。しかし、国益を推進するという意図で作られた文書は、歴史時代も現代も、国家の神や国家の支配者の勝利や偉業だけをほめたたえて、敗北や失敗を隠しがちであることは繰り返し示されてきました。一方、聖書は自国の敗北や失敗も正直に記録しています。


メシャは、また、イスラエルの神エホバについて言及しました。その文書の第18行目に四文字語テトラグラマトンが記されています。その部分でメシャは,「わたしはそこからヤハウェの[器]を取り,それらをケモシュの前に引いて来た」と豪語しています。日本人の考古学者は「わたしはそこから18ヤーウェの英雄たち(?)を捕らえて、カモシュの前に連れ出した。」と訳出しています。いずれにしても、聖書以外の文書で神のみ名が使われている例としては,モアブ碑石が恐らく最古の記録であろうと思われます。


古代のモアブ碑石は、モアブ人の神ケモシュと、王メシャをたたえるために作られましたが、はからずも、聖書の歴史的正確さを裏付けています。私たちは聖書の記録が詳細な点に至るまで、正確であることを信頼できます。「以前に書かれた」聖書の記録は、クリスチャンが、「教え」を学ぶために記されています。(ローマ15:4)私たちは、聖書の歴史の記録から現代に通ずる教訓を学ぶことができます。


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