善悪の知識の木の実を置くのは不当な事ではありませんでしたか

 ある人々は、愛の神であれば、エデンの園に善悪の知識の木を置くべきではなかったのではないかと考えます。また、ある人は神に対する感謝は善悪の知識の木の実を食べないこととは別の方法でも示すことができたのではないかと言います。


 そのことについて、考えてみましょう。


 エホバ神は確かに愛の神です。(ヨハネ第一4:8)つまり、神は全被造物の最善の益を願っておられます。被造物が永遠にわたって平和に幸福に暮らすことを願っておられます。神は「平和の神」と呼ばれています。(ヘブライ13:20)


 そのために、神はご自分の支配権が被造物にとって必須であることをご存知です。また、エホバ神は、ご自分以外の被造物が支配権を握ると大きな弊害があることをご存知です。(伝道の書4:1。エレミヤ10:23)


 そのことは、歴史を通して諸政府が支配してきた期間、戦争や紛争が絶えなかったことからも明らかです。(伝道の書8:9)エホバ神はそのことを悪魔サタンと人間に自由な支配を許される前からご存知でした。



人間には、神から全く独立して自らを首尾よく支配する能力は与えられていません。聖書は、自分の歩みを導くことは、歩んでいるその人に属していない、つまり、人間が自らの歩みを導けないと言っています。(エレミヤ10:23)


 人間が神を無視して支配することは、「人の前には廉直な道であっても,後にその終わりが死の道となるもの」です。(箴言14:12)聖書を度外視して人間が自らの目に正しいと考えるやり方は、後で人間に害をもたらすことが多いのです。人間は神から独立して、平和と幸福を自らにもたらすことはできないのです。最終的な結果は死となります。




人間は歴史を通して神の支配権を無視して生活してきたので時ならぬ死と争いが歴史上に満ちることになりました




 霊者たちも含めて知的な被造物の支配者としてふさわしいのは、エホバ神だけです。(詩編10:16)エホバ神は人間を含めて万物を創造されたからです。(エレミヤ10:10,11)エホバ神以外の者が神が許される期間以上支配することには弊害があります。そのために、エホバ神はご自分の支配権を擁護されます。



 それで、アダムとエバは一番最初に神の支配権を尊重する重要性を学ばなければなりませんでした。エデンの園の善悪の知識の木は、エホバ神が人間のために善悪を判断する権利、つまり神の支配権を表していました。その木の実を食べる、つまり人間が神を無視して自分で善悪を決めて行動することは、死を意味すると警告されました。(創世記2:17)


 もちろん、神は人間が理性を持っていることをご存知です。私たちは、理性を働かせてエホバ神の決められた善悪の基準が正しいことを判断することができます。そして、私たちは聖書中の神の律法や基準を理性的に考慮すると神の判断が正しい多くの事例を知ることができます。


 しかし、ある場合、エホバ神が人間より知識や先見の明が優れているために、私たち人間は神の基準が正しいことを理解できないことがあるかもしれません。その場合、神の律法を押しのけて人間は自分自身の定めた律法に従うべきでしょうか。




 私たちは、神の判断が賢明であったことを私たちは後になつて理解することがあります。ですから、聖書に明示されている創造者なる神の基準は、いつも賢明であることを認めることが求められます。


 これは、単に聖書に基づかないクリスチャンの意見を盲目的に尊重することを意味してはいません。しかし、少なくとも聖書中に明らかに示されている神の律法をエホバ神は尊重することを求めておられると思います。



 神の支配権に従順であることがアダムとエバにとって最善だったのです。神はご自分が人間の創造者なので、そのことをご存知です。


 神はその教訓を与えるために、善悪の知識の木をエデンの園に置かれました。そして、神はその木の実を食べることを控えることによって、神の支配権を認めていることを示すことができるようにされました。


 確かに、神への感謝を他に表す方法もあります。例えば神に供え物をすることによって、神への感謝を表せるでしょう。しかし、他のどんな方法で、神の支配権を尊重する必要性をアダムとエバに教えることができたでしょうか。


  善悪の知識の木の実を食べることを差し控えるというのは、大変負担の軽い要求でした。アダムとエバは食べる物は豊富に与えられていたのです。(創世記2:16)アダムとエバはただ一本の木の実を食べることを禁じられたに過ぎません。それを食べないからといってアダムとエバが飢えるとか苦しむということは一切ありませんでした。



エホバが禁じられたのは一本の木の実にすぎませんでした
食べるものは豊富にありその要求は重荷とはなりませんでした



 聖書には、神のおきてを守り行うことによって神への愛を表せること、神のおきては重荷ではないと書かれています。(ヨハネ第一5:3)一本の木の実を食べないことは、決して重荷ではありませんでした。それで、エホバ神がごく簡単な要求をアダムとエバに課したのは、決して不当な事ではありませんでした。


 アダムとエバはただ一本の木の実を食べなければ、エデンの園でいつまでも生き続け、エホバ神がふんだんに備えた物を享受することができたのです。例えば、私たちは家を借りる場合、大家に家賃を払います。アダムとエバは命を与えられ神が作られたエデンの園に住まわせてもらっていたのですから、神がアダムとエバに何らかの要求をされたとしても、少しも不当ではありませんでした。


 人間の政府が人間にとって大変重荷となる要求をすることがあるのと対照的に、エホバ神のご要求は何と負担が軽いものだったのでしょう。

 
 それで、エホバ神は愛の神であり、被造物の永遠の福祉を願っておられたからこそ、エデンの園に善悪の知識の木を置かれました。それは、被造物の永遠の平和と幸福を保証するエホバ神の支配権を表していたからです。エホバ神は全知の神であられるので、被造物にとって最善なことをご存知です。


 それで、神は善悪の知識の木の実を食べることを禁じられたので、アダムとエバがそのことを行なうことは必要でした。神のご要求以外のことをしても神に是認されることはありません。


 また、エホバ神のご要求は重荷ではありません。また、エホバ神がエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのは少しも不当ではありませんでした。