イエスが亡くなる前に経験されたストレスと苦しみ


 エスは、ご自分が経験することになっている苦しみの死について、「それが終わるまで,わたしはどんなにか苦しむことでしょう。」と言われました。(ルカ12:50)



エスは、贖いの犠牲を遂げられる前に、非常なストレスと苦しみを経験されました。イエスが経験した非常なストレスと苦しみについて考えるなら、私たちはイエスが私たちのために神に捧げてくださった贖いの犠牲に感謝するよう促されます。


  エスが経験された苦しみと死はイエスにとっても初めての経験でした。イエスは、この物質宇宙が存在する前に、エホバ神によって神の創造の初めに霊者として創造されました。(箴言8:22)ですから、イエスは、地上で人間としてお生まれになる幾十億年も前から、天で生きておられました。ところが、イエスは天での生活の中で、父なる神に従うがゆえに非常な苦しみを経験することはありませんでした。

 私たちも、失敗する可能性のあること、初めて経験する苦しみは、ストレスになります。イエスにとっても、苦しんで死ぬということは、彼の生涯の中で初めての経験でした。それは、イエスにとって耐えるのが簡単なことではありませんでした。 しかも、それが前もって分かっていたら、苦しむことでしょう。


 エスは、裁判にかけられて杭にかけられる前にゲッセマネの園で祈られました。(マタイ26:36-29)その時、イエスは、汗が「血の滴りのようになって地面に落ちた」と述べられています。(ルカ22:44)





Waiting For The Word Gethsemane 34
エスゲッセマネの園で非常に苦しんで神に助けを祈られました



 極端な精神的ストレスの幾つかの症例では,血の混じった汗の出たことが報告されています。あるクリスチャンがご自分の甥子さんについて、心臓疾患を持っていて亡くなる数日前に血のように赤い汗を流し、タオルが赤く染まったとネットで語っておられます。


エスは、「わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。(マタイ26:39)



 エスが言われた「この杯」とは何でしょうか。イエスは死刑になるために捕えられた時、「父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」と言われました。(ヨハネ18:11) それで、神がイエスに与えた「杯」とは、捕えられて宗教指導者たちから苦しめられて杭の上での死を遂げることだったでしょう。


 エスは聖書全体の預言をご存知でしたし、天でエホバ神から話を直接聞いておられたと考えられます。贖いの犠牲を遂げることは、キリストが地上に遣わされた目的でしたし、それが人類の益のためであることは、イエスは十分分かっておられました。(マタイ20:28)


 エスは贖いの死を遂げるために、非常な激痛を経験することになっていました。 イエスは、ご自分に関する聖書の預言をご存知だったので、イエスは「杭に掛けられ」て「神にのろわれた者」となることをご存知でした。(申命記21:23)また、イエスは、イザヤ書が、メシアは、「苦しみを受け」「刺し通され」「打ち砕かれる」ことを予告していることをご存知でした。(イザヤ53:4,5)


 エスは、人々がご自分を「愚弄し、むち打ち、かつ杭につけるために諸国民の者たちに引き渡す」ことを予告されました。(マタイ20:19)


 エスが、杭の上でなくなるのは、人々の罪のための贖いの犠牲のためでした。(マタイ20:28)また、イエスは「友のために自分の魂をなげうつこと」より「大きな愛」を持つ者はいませんと言われました。(ヨハネ15:13)ですから、イエスの行為は、数えきれない人類に永遠の命を与える自己犠牲的な愛の行為でした。(ヨハネ3:16)イエスの行いは、感謝され称えられるべき行為でした。


 しかし、イエスが贖いの死を遂げるその時、人々からは少しも感謝されないのです。イエスは、人々から「さげすまれ」、人々から「取るに足りない者」とみなされることになっていました。(イザヤ53:3)


 それで、イエスが「杯」を過ぎ去らせてくださいと願ったということは、捕えられて、非常な苦しみを受け、神を冒とくする者として、卑しめられた仕方で殺されるというエホバ神のご意志を受け入れることは、やはり、イエスにとって容易に受け入れられることではなかったということを示しています。


 エスは、「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。」と言われました。(マタイ26:38)イエスの完全な忠誠に人類の将来がかかっていました。もし、イエスが失敗すると神には大変な恥辱がもたらされ、贖いの犠牲は備えられず、人類は永遠の命を与えられず、神のみ言葉の真実性に疑問が投げかけられることになります。それで、イエスがどのように行動するかの結果は非常に重要で大きなものだったので、イエスにとっては、その思い煩いと前途の試練は非常に大きなストレスになりました。 




Gethsemane by Wassilij Grigorjewitsch Perow
完全なイエスにとっても苦しみを受けて冒とく者として死ぬことは簡単なことではありませんでした―イエスに神のみ名と人類の将来がかかっていたのでイエスは非常に苦しまれました



エスは自由意志を行使できる存在でした。ですから、イエスは望めば、ご自分に対する神のご意志を退けることができました。また、そのような過酷な状況の中で、神への完全な忠誠を保つことができるのか、イエスは非常に不安だったでしょう。イエスは心が潰れてしまいそうな思いをされました。


 そして、イエスの祈願は神に聞かれました。エホバは、み使いを遣わしてイエスを励まされました。(ルカ22:43)しかし、イエスは、神のご意志が成し遂げられて、神に栄光がもたらされることを望まれました。イエスは、最後には、ご自分に対する父エホバ神のご意志を謙遜にまた従順に受け入れられました。


  このことは、また、贖いの犠牲の取決めが、エホバ神の発意が考えられたもので、イエスはエホバ神のご意志の遂行に協力されたということを示しています。完全な人間であっても、苦しむことが平気であるということではありません。また、完全な人間であっても、神の言葉に調和した行動をとる点で、エホバ神の助けが必要であったことを示しています。


エスは、聖書の言葉が完全に成就するようにと、気にかけておられました。イエスは、ご自分が贖いの犠牲をささげるために、み使いの軍団の援助を神に求めることをされませんでした。そして、「そのようにしたなら、必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」と言われました。(マタイ26:54) 


 エスは、サンヘドリンの前で、「今後あなた方は,人の子が力の右に座り,また天の雲に乗って来るのを見るでしょう。」と言われました。(マタイ26:64)これは、「人の子」、つまりイエスが、天で、「力」つまり、エホバ神の右に座ることを予告したものです。これは、「あなたは神の子キリストなのかどうか」という大祭司の質問に対する、肯定の答えでした。(マタイ26:63)そのため、大祭司は、イエスが「冒とくした」と決めつけイエスを死刑にすることにしました。(マタイ26:65)


 エスは、まさに神の子キリストであったので、イエスは全く正直に語られました。ですから、イエスが死刑にされる根拠は全くありませんでした。イエスは、全く罪がないのに死刑にされました。そのゆえに、イエスの死は人類の罪のための贖いになりました。


 また、イエスの言葉は、ご自分が贖いを遂げた後、エホバ神から栄光を受けるという喜びをはっきり見据えておられたことを示しています。そのため、イエスは苦しみの杭の上での死という「恥を物とも」されませんでした。(ヘブライ12:2)


 そして、イエスは、その後、敵対者たちにつかまって杭の上で最後に死を遂げるまで、はっきり意識を保ってエホバ神に完全に忠誠を保つことができました。


私たちは、イエスが非常なストレスと痛みと苦しみを忍んでくださったことを感謝できます。是非、キリストの記念式に出席して、キリストの備えて下さった贖いの犠牲に感謝を示しましょう。


 私は、エホバの証人の教理のすべてに同意してはいませんが、エホバの証人が、キリストの死の記念式を年に一度だけ行うのは、正しいと思います。(民数記9:2,3)





Richard Scoop Kingdom Hall in Tortola BVI
エホバの証人は2016年3月23日の日没後全世界の王国会館でキリストの死の記念式を催します


キリストの死の記念式は、2016年3月 23日(水)、全世界のエホバの証人の王国会館で日没後に行われます。去年2015年の出席者は、全世界で、1986万2783人でした。エホバの証人の執り行う記念式に出席されて、キリストの贖いに対する感謝を表されるようお勧めします。