エゼキエル43・44章―エホバの祭壇で罪を清めてエホバの崇拝が復興する

 エゼキエル43章には、山頂にあるエホバの家、エホバのつまり神殿にエホバ神が定めない時まで住まれるという約束をしています。(エゼキエル43:7)エゼキエルはエゼキエル11章で見たエホバの家を、エゼキエル43章では、山の頂で見ます。(エゼキエル43:12)


 エホバの家の中から声が聞こえてきます。その声は、「これはわたしの王座のある場所、わたしの足の裏を置く場所である。」と言われます。(エゼキエル43:7)


ですから、エホバは至聖所のある神殿の建物そのものをご自分の王座のある場所と言われたようです。さらに、エホバは、その神殿は、ご自分の足の裏を置く場所と言われています。





エホバは神殿をご自分の足を置く所と言われました




 エゼキエル書の中では、エホバの王座はケルブの上にあります。(エゼキエル1:26;10:1)ですから、エホバの神殿は、ケルブの権威の上にあることが分かります。新約聖書の中では、天的な希望を持つクリスチャンは、エホバの神殿として成長していくと述べられています。(コリント第一3:16。エフェソス2:20,21)ですから、ケルブたちは、地上にいる天的な希望を持つクリスチャンに協力してくれるでしょう。





エホバの王座はケルブの上にあるので天的な希望を持つクリスチャンはケルブに協力してもらえるでしょう




 エホバ神の神殿は、当然エホバ神が崇拝されるべき場所です。足の裏を休めるとは、エホバ神が足の裏をつけてそこに座っておられることを示唆していると思います。(申命記28:65)エホバにとって「足の裏を休める場所」とは、エホバ神が「安らぎ」を見い出すべきところだと言えます。エホバ神はご自分に対する崇拝によって安らぎを感じられることが分かります。



 また、エホバの神殿とは、エホバに比ゆ的な香である祈りが捧げられるべき所です。(啓示5:8;8:3,4。詩編141:2。エゼキエル16:19) エホバに捧げられる比ゆ的な香は、エホバに「安らぎ」と「喜び」をもたらすものでなければなりません。(エゼキエル20:41) 



James Chan
神殿級はエホバに安らぎと喜びをもたらす祈りをささげなければなりません



 41章によると、神殿の長さが四十キュビトで、幅が二十キュビトです。(エゼキエル41:2)また、その中で至聖所の長さと幅は二十キュビト(約10.4メートル)の正方形という記述があります。(エゼキエル41:4)すると、至聖所を除くと、幅が二十キュビト(約10.4メートル)で、長さが二十キュビトの正方形の余地が残ることになります。



 この幻の神殿で、「奥の部屋」や「奥の家」や「奥の場所」と言及される場合、至聖所について言及していると考えられます。ですから、この幻の神殿に関しては、聖所に対する直接の言及はないとは言え、奥でない部屋は、おそらく正方形の聖所を表しているのでしょう。(ヘブライ9:2-5)


 「キリストは律法の終わり」と述べられており、モーセの律法はキリストの到来と共に、破棄されました。(ローマ10:4)ですから、文字通りのエホバの神殿を地上に建設する必要はないです。


 今日、キリストが天の大祭司となっておられ、動物の犠牲や、文字通りの香を捧げることは求められていません。(ヘブライ8:1,3)今日、祭司級がエホバに捧げることが求められているのは、文字通りの動物の犠牲ではなく、賛美の唇の犠牲です。(ヘブライ13:15。ホセア14:2)しかし、その山の上の神殿が示唆しているエホバの崇拝の型は行われることになります。





人々にエホバ神と聖書について語ることは昔の神への動物の犠牲が表わしていたものです―地上で今幻の神殿で表わされていた神への賛美が行われています




イエス・キリストは大祭司です。また、天的な希望を持つクリスチャンは、「聖なる祭司職のための霊的な家に築き上げられてゆく」と述べられています。(ペテロ第一2:5)では彼らは、死後、聖なる祭司職に就くのでしょうか。彼らは「神に受け入れられる霊的な犠牲をイエス・キリストを通してささげる」とも述べられています。(ペテロ第一2:4,5)


 ですから、イエス・キリストに通して霊的な犠牲をささげるのは、地上に人間として存在する現在です。また、天的な希望を持つクリスチャンは、「王なる祭司、聖なる国民」であると述べられています。(ペテロ第一2:9)また、彼らは、「闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の卓越性を広く宣明する」務めがあります。(ペテロ第一2:9)神とキリストの卓越性を広く宣明するのは、地上で人間として存在している間です。


 それで、天的な希望を持つクリスチャンは地上に人間として存在する時も、祭司職についていると言えるでしょう。しかし、彼らは不忠実になればその立場から除かれることになります。エゼキエル44章によると、偶像崇拝に陥ったレビ人が「祭司の勤めを行なうために最も聖なるものに近づいたり」することはないと述べられています。(エゼキエル44:13)それで、不忠実になれば、祭司職の立場を失ってしまうようです。




偶像崇拝が行われるならば祭司職から退けられ天的な希望が取り去られてしまいます



 しかしながら、一世紀に油注がれたクリスチャンが、はなはだしい淫行の罪を犯して、会衆から排斥されましたが、悔い改めたので再び会衆に受け入れられました。しかし、その時、そのクリスチャンが天的な希望を失ったという記述はありません。


 ですから、罪を犯しても、許されて天的な希望を保つクリスチャンも存在するようですが、天的な希望を取り去られてしまうクリスチャンも存在するようです。いずれにしても、天的な希望を持つクリスチャンは、基本的に神の律法に忠実であることが求められています。(コリント第一4:2)


 そして、啓示の書によると、死に至るまで神とキリストに忠実を保つクリスチャンは、千年間「王また祭司として」仕えることになります。(啓示5:10;20:6)彼らの祭司としての立場は、忠実を保って復活する時に不動のものになります。




一部のクリスチャンには天に復活して王また祭司となるという希望が与えられます


 そして、ザドクの祭司は神に忠実だったので、祭壇を清めて「使い始め」をします。(エゼキエル43:26)再スタートを切るということは、世界的なクリスチャンの奉仕の業がいったん停止させられることを示しています。そして、祭司は罪の犠牲を七日間捧げます。


また、祭司級は将来、忠実で思慮深い奴隷級でもあるので、クリスチャンが全体として罪を犯してしまったことを振り返って反省していることを示す聖書的な話しを掲載するでしょう。(マタイ24:45-27)それはエホバに対する犠牲になるでしょう。


 そして、そのような世界的にクリスチャンにとっての「試みの時」に忠実を保つクリスチャンに、キリストは報いを与えられるのでしょう。(啓示3:10)ご自分が王権を取られる時に、ご自分の持ち物をその忠実なクリスチャンのグループに与えることになるのでしょう。(マタイ24:45-27)



 私たちは、エゼキエル44章や48章に書かれている忠実なレビ人の「ザドクの子らの祭司」のようでありたいと思います。(エゼキエル44:15;48:11)ザドクとは、油注がれた者ダビデに最後まで付き従った祭司でした。その祭司の子孫がいることが予告されています。それらの忠実な祭司たちは、他のレビ人が偶像崇拝に陥った時も、忠実を保ちました。



 また、いったん、神への奉仕が途絶しても、再び、「聖なる場所は必ずその正しい状態にされる」とダニエル書も預言しています。(ダニエル8:14)神への崇拝と奉仕が永遠に消え失せてしまうことは決してありません。エホバ神はご自分の崇拝を守るために手段を講じられるでしょう。エホバ神に固くつき、永遠にエホバ神を崇拝していきましょう。




ザドクの子らの祭司たちのように偶像崇拝を避けてエホバ神への忠実を保ちましょう