イザヤ42章・エホバ神が偶像崇拝を否定される理由

「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に[与える]こともしない。」(イザヤ42:8)


 キリスト教会の中には、偶像を置いている教会もあります。キリストの像や絵画、十字架、マリアの像や絵画があって、崇拝の対象となっていることがあります。エホバ神はそうした偶像についてどのように感じておられるでしょうか。エホバ神は冒頭の聖句のように述べて、ご自分に対する崇拝を他のものに与えることを拒否しておられます。


 エホバ神はご自分が力あふれる創造者であることをイザヤ40章でこのように述べておられます。「あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる。満ちあふれる活動力のゆえに,その方はまた力が強く,[それらの]一つとして欠けてはいない。」(イザヤ40:26)


 目を見上げると数え切れない数の星が存在しています。エホバは幾十億もの星を創造され、その星の数を数えておられ、また名前をつけて呼んでおられます。また、全宇宙の星を造られた創造者のエネルギーは測り知れないものがあります。私たちはそうしたことを考えるように勧められています。


 そして、創造者はさらにこのように述べておられます。「『あなた方はわたしをだれに例えて,わたしをそれに等しい者となし得るのか』と,聖なる方は言われる。 」(イザヤ40:25)エホバ神は全宇宙を創造された測り知れないエネルギーを持たれる生ける神です。エホバ神に例えられるものはこの地球上に、また全宇宙にひとつもありません。


 一方、偶像に関して、神はどのように述べておられるでしょうか。 「彼らは金属細工人を雇い,その者はそれを神に作る。彼らは平伏する。そうだ,身をかがめるのだ。彼らはそれを肩に載せて運び,それを負い,それが動かずに立っているようにその場所に安置する。それは自分の立っている場所から離れて行かない。人はこれに向かって叫びさえするが,それは答えず,人をその苦難から救うこともしない。」(イザヤ46:6,7)


 金属や木で、偶像の神を造る人がいます。偶像は肩に載せて運ばれなければならないのですから、それに向かって叫んでも、それに答えて人を苦難から救うために安置されている場所から離れることはありません。死んだ金属や木を神として崇拝するのは、何と愚かなことなのでしょう。

 エホバ神はこのことを述べる直前でも、次のように述べておられます。「あなた方はわたしをだれに例え,[だれに]たぐえ,[だれに]比べて,我々は互いに似ているというのか。」(イザヤ46:5)


 エレミヤ書の中では、偶像のうちに霊がなく、生命がないこと、すべて偶像を作る者たちがその偶像のゆえに恥をかく時が来ること、偶像は滅びうせる時が来ることが予告されています。(エレミヤ10:14,15)


 測り知れないエネルギーを持たれる生ける全知全能の創造者を死んだ偶像で表わそうとするのは、大変愚かなことです。エホバ神は私たち人間の想像を超えた方です。エホバを表わす偶像を作るなら、エホバを限定してしまうことになります。それは、エホバを卑しめること
になります。


 キリストやマリアを神として崇拝するのも、同じです。それらは、被造物に過ぎません。また、エホバ神はご自分に捧げられるべき崇拝を他の者に与えないと述べておられます。確かに、キリストの立場を認めて深い敬意を払うのは、正しいことですが、キリストの像を神として崇拝するのは、愚かなことであり、間違っています。


 また聖書は偶像を崇拝するならば、エホバではなく悪霊を崇拝することになると述べています。聖書はこう述べています。「偶像に犠牲としてささげられるものには何か意味がある,また,偶像には何か意味がある,と[言うべき]でしょうか。いいえ,そうではありません。諸国民が犠牲としてささげるものは,悪霊に犠牲としてささげるのであって,神に[ささげるの]ではない,と言うのです。」(コリント第一10:19,20)


 それで、聖書は諸国民が偶像に犠牲を捧げるのは、実際には悪霊に犠牲を捧げていると述べています。私たちは、悪霊を崇拝したいとは思わないのではないでしょうか。


 エホバ神が聖書の中でご自分と偶像について述べていることを考えるならば、私たちはエホバ神を決して偶像に例えることができないことが分かります。また、偶像崇拝がむなしいだけでなく、悪霊崇拝を意味しており、エホバ神に喜ばれないことが分かります。偶像を崇拝しないように、気をつけるべきです。