歴代第二9章・バルサム油や金や宝石を贈り物にしたシェバの女王の王国はどこにあったのか

歴代第二9章によると、シェバの女王はバルサム油や金や宝石を大量にらくだに積んでやってきてソロモン王への贈り物としたと記されています。(歴代第二9:1)シェバというのはどこでしょうか。そこには、バルサム油や金や宝石が豊富に産出したのでしょうか。調べてみましょう。




Solomon and the Queen of Sheba(sheba6)
シェバの女王はソロモン王にバルサム油や金や宝石を贈り物にしました
彼女の国はどこにあったのでしょうか



 シェバ王国の所在については有力視される2つの説があります。南アラビアのイエメン説と、アフリカのエチオピア説です。イエメン説によればシェバの女王はビルキス(あるいはバルキス)と呼ばれ、エチオピア説によればマケダ(あるいはマーキダ)と呼ばれています。どちらの場所もそれらしい証拠があります。


 歴代第二の記録によると、女王はソロモンに金120タラント(現在の価値に換算すると4,624万2,000ドル)を持ってきました。また、彼女はバルサム油も持ってきました。バルサムとは、芳香性の多くの草や木に当てはまります。バルサム油は香料として用いられ、乳香の木のことであると考えられています。(エレミヤ8:22)




Day 6: Frankincense & Myrrh by marcdroberts( Frankincense 4)
バルサムとは乳香のことだと考えられています


 聖書の他の記録も、シェバは、乳香などの香物、金、宝石を商う商人であったと記されています。そして、彼らの商業活動は、ティルスにまで及んでいました。(エゼキエル 27:2; 27:22‐24。詩編 72:15。イザヤ 60:6)


 ですから、シェバは、そうしたものが豊かに産出する場所であり、あるいは、少なくともそれらを他の国から仕入れて売ることのできた場所でなければなりません。


                            イエメン説


 イエメンYemenには、マーリブという町にシェバの女王のものであったとされる、太陽の神殿と月の神殿があります。マーリブMa'ribとは、北イエメンの東部、サヌアから約120kmの高原にある町です。太陽神殿(マハド・シャムシュ)は65もの部屋が発見されていることから太陽の宮殿とも呼ばれています。遺跡は柱が8本残っているだけでしたが、最近地中に埋まっている部分の発掘が進み建物部分を見ることが出来ます。


月の神殿はアルシュ・ビルキスといい、ビルキスの椅子という意味です。現地の人々は、ビルキスをシェバの女王の名前だと考えています。



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(yemen4)
イエメンにはシェバの女王のものだと考えられている太陽の神殿と月の神殿があり古代から乳香がとれました

 
 イエメンでは、乳香は生活の一部としてごく普通に使われているものだそうです。お客を歓待するために、さりげなくくゆらせたり、衣服に炊き込めたりして、一般の人々が乳香を楽しんでいるそうです。


  しかし、古代では、もっと乳香が交易に用いられていました。西暦前一世紀のディオドロスは、「世界史」の中でこう書いています。「アラビア人の中で最も有名なのはサバ人の国である。彼らは幸福なアラビアとして知られている土地に住んでいる。・・・内陸全体は深い森林に覆われ、そこには、乳香と没薬を生じる大樹や椰子、シナモンの樹などそれとこれと同じような香りを持つあらゆる植物がある。」

 
 また、南アラビアのイエメンの東隣の国はオマーンです。オマーン南西部ドファール地方の一帯が、2000年、「乳香の道」としてユネスコ世界遺産に登録されました。ドファール地方は、昔から、良質な乳香の産地として知られており、このローマ帝国への通商路が確立した紀元1〜2世紀に乳香交易で海と陸の通商路として栄えていたということです。

 
 今ではイエメンでは、金や宝石は産出しないようです。しかし、南アラビアのイエメンには、シバ王国もしくはサバ王国があったと考えられています。そして、そこでは、昔は金や宝石を入手できたようです。


 なぜなら、アッシリアサルゴン2世が、『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』という記録がアッシリアに残っています。


 また、アッシリアセンナケリブは、アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文に『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記しています。


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 ですから、南アラビアのイエメンでは、昔から今に至るまで、乳香がとれます。また、そこには、古代には、シバ王国もしくはサバ王国が存在していました。また、イエメンでは、古代においては貢物にすることができるほど金と宝石が産出していた、あるいは他の土地から入手していたという証拠があります。それで、私はシェバの王国は、イエメンであるという説が最も可能性が高いと思います。


                         エチオピア


 次にエチオピア説ですが、エチオピアEthiopia では、ソロモン王とシバの女王の間に生まれた子供が、メネリク1世であり、成人したメネリクは、父のソロモン王を訪問し、多くのユダヤ人をエチオピアに招いたとされています。そして、実際に多くのユダヤ人がエチオピアに近代に至るまで存在していました。



A map of Ethiopia.public domain (ethiopia1)


 この伝承は、紀元前5世紀頃に建国されたアクスム王国の王室と、1270年にエチオピア帝国を建国した、イクノ・アムラクによって確立され、両者はともにメネリク一世の直系の子孫であると主張しています。


 確かに、聖書には、「ソロモン王は,ファラオの娘と共に多くの異国の妻たち,すなわちモアブ人,アンモン人,エドム人,シドン人,[および]ヒッタイト人の女を愛した。」こと、また、「七百人の妻,すなわち王妃たちと,三百人のそばめを持った。」が記されています。(列王第一11:1,3)


 さらに、聖書は恋人のいるシュラミの娘にソロモン王が、王妃にして性関係を持ちたいという願いを言い表したことをはっきりと記録しています。(ソロモンの歌7:8,9)

 
 しかし、聖書は結婚関係外にない男女の間の姦淫や淫行を非としています。(出エジプト20:14)聖書はダビデが、バテシバと姦淫をしたことを隠さずに記録し、非難しています。(サムエル第二12:9,10;詩編51:1)


  そして、ソロモンが神の律法からはなはだしく違反したのは、晩年ですから、シェバの女王が来訪した時には、まだ神に忠実であったのではないかと思います。それで、ソロモン王は淫行や姦淫を禁ずるモーセの律法に従っていたはずです。ソロモンがシェバの女王をめとらずに、一時的な性関係を持つ、つまり、淫行をするとは考えられません。


 そして、聖書の正直さを考えるならば、もしソロモン王がシェバの女王を妻としたのであれば、そのことを聖書は隠さずに記録したのではないかと思います。ソロモンがシェバの女王を妻とするというような重要な出来事を聖書が記録から省く可能性も低いと思います。


 でも、シェバの女王が随行員の誰かをソロモン王に王妃か妾として差し出して、そのことが記録されなかったということは考えられるかもしれません。それで、エチオピアの記録は、後世に事実を曲げて記録された可能性もあります。


 しかしながら、エチオピアでは、現在でも、乳香も金も宝石も産出します。それで、エチオピア説の根拠はあると言えます。


 こうしたことを総合的に考慮するなら、私はシェバの女王の故郷はイエメン説が正しいのではないかと考えます。いずれにしても、イェメンにしても、エチオピアにしても、ソロモンの時代に、バルサム油や金や宝石の贈り物を持ってくるシェバの女王の王国は、確かに存在し得ました。