ヨブ記3章・死に対する恐れを克服する(新世界訳)

「 なぜわたしは胎から出て死ななかったのか。[なぜ]わたしは腹から出て来たとき,息絶え[なかったのか]。・・・今ごろは,わたしは横たわって,乱されないでいたであろうに。そうすれば,わたしは眠っていたであろうに。わたしは休み,・・・ かしこでは,邪悪な者も動揺をやめ,かしこでは,力の点で疲れ果てた者たちが休んでいる。」(ヨブ3:11,13,17新世界訳)


ヨブは悪魔サタンによって罪も無いのに、財産を奪われ、十人の子供たちを失い、自分の体は全身が悪性のはれ物が生じました。ヨブはあまりの苦しさゆえに誕生した時、死んでいればよかったと言いました。ヨブは、その時、死んだ人の状態をどのように描写していますか。


 ヨブは、死んだ人は横たわって乱されず、眠っていると述べています。また、動揺するのではなく、休んでいると述べています。ですから、聖書は死んだ人がいわゆる地獄で苦しめられているとは述べませんでした。邪悪な者が死の状態の中では、動揺しておらず、休んでいると述べています。つまりもう苦しみを感じなくなっていると述べています。


ですから、聖書は悪いことをした人が地獄で苦しめられるとは述べていません。また、また、ヨブは流産になった子が天国に行っているとも述べませんでした。


 聖書は他の箇所でも、「死んだ者には何の意識もなく」、「シェオル」、すなわち人の「行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もない」と述べています。(伝道の書9:5,10)シェオルとは、人類一般が死ぬと行く場所を意味しています。シェオルでは、死者は何の意識もありませんから、仕事をしたり、知恵や知識を働かせたりすることはもうできません。それで、聖書は死んだ人が、無意識で、何の苦しみも煩いも経験していないことを述べています。


 それで、神が人間をその邪悪さのゆえに永遠に地獄で苦しめるという教えが間違っていることが分かります。神は、悪に対して残忍に執念深く永遠に復しゅうするような方ではありません。死者は無意識で無存在となっています。当然、死者は基本的にそのまま天国に行くわけでもありません。


ヨブはあまりの苦しさのゆえに死ぬことを求めました。ヨブは、もし人が死ぬとやはり、苦しみが続いて、永遠に苦しめられる地獄に行く可能性があると考えていれば、死ぬことを願ったりはしなかったことでしょう。ヨブが死ぬことを求めたのは、ヨブは死者は無意識無存在になって生きている時の苦しみをもはや経験しないですむということ、また死者には復活という希望があることを知っていたからです。(ヨブ14:13,15。使徒24:15)


それで、私たちは末期的な病気などでどうしても死に直面しなければならない時に、死後にもう苦しみを経験しなくなること、地獄や天国に行くのではなく、無意識無存在になるということ、人類の大多数に神は地上への復活という希望を差し伸べておられることを知ると慰められます。そのような希望を持っていれば、死に対して極端で過度の恐怖を持たないように助けられます。