啓示6章・迫害されて殉教した中世のワルド派

「 また,彼が第五の封印を開いた時,わたしは,神の言葉のために,またその行なっていた証しの業のためにほふられた者たちの魂が祭壇の下にいるのを見た。 そして,彼らは大声で叫んで言った,『聖にして真実な,主権者なる主よ,あなたはいつまで裁きを控え,地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておられるのでしょうか。』」(啓示6:9,10) 


 啓示の幻の中で、イエスはエホバから七つの封印をされた巻き物を受け取り、その第五の封印を開きました。すると、ヨハネは過去において神の言葉のためにまた証しの業のために殉教した者たちの魂が祭壇の下にいて、エホバに血の復しゅうを叫び求めていたのを見ました。


 確かに歴史を振り返ってみると、数多くのエホバの民が迫害されて殉教してきました。


 中世において聖書の教えに忠実であろうと努力して迫害を受けた幾つかのグループがあります。12世紀のごく初期のころ,ブリューイのピエールという人物がフランスでカトリックに反対する人物として際立った存在になりました。ブリューイのピエールは、カトリック教会と意見を異にしていました。ピエールは、南フランス一帯の人々に直接伝道し、多くの弟子を作りました。最後には、彼は1140年に杭に付けられ火あぶりにされました。


 その他にも迫害されたグループにワルド派がいます。西暦12世紀の終わりごろ,リヨンの裕福な商人であったピーター・ワルドは、資金を供給して、聖書の一部を南フランスで使われていた土地の言語に初めて翻訳する作業を行わせました。ワルドは、商売をやめて福音伝道に生涯をささげました。地元の僧職者はやがて、教皇を説得してワルドの公の証言を禁止させました。ワルド派と呼ばれた追随者たちは、ワルドの手本に熱心に従うよう努力し、二人ずつ組んで人々の家々を訪ねて伝道しました。


 ワルド派は熱心に聖書を研究して、初期キリスト教の信条や慣行に戻ることを唱道しました。彼らは偶像崇拝、マリア崇拝、聖人たちへの祈り、実際の武器の使用などを退けていました。さらに,イエス神と人との間の唯一の仲介者であると信じていました。彼らはどこででも秘密の集会を開き、聖書を研究し、新しい伝道者たちを訓練しました。また彼らは悔い改めない罪人を排斥しました。


 ワルド派の多くは法王インノケンチウス3世が1209年に命じた南フランスにおけるカタリ派とアルビ派に対する恐ろしい“聖戦”の犠牲者となりました。そのほかの人たちは1229年に南フランスで始まった悪名高い異端審問で拷問に遭い、殺されました。ワルド派の中には首尾よく他の国へ逃れた人もおり、さらに大勢の人々はフランスおよびイタリアのアルプス地方の高い山々にある谷間に身を潜めました。


 カトリック教会による迫害が続く中,他の多くのワルド派信者も、より安全なフランス南部のプロバンス地方に住むようになりました。程なくしてそうした移住に関して注意を喚起して、ワルド派は秩序を脅かす存在だと当局に非難した人々がいました。布告が出され、その結果、1545年、プロバンス地方のルベロンという地域で、軍隊が集結し、1週間にわたり、殺りくが続きました。村々は完全に破壊され、住民は投獄されるか殺されるかしました。男性約2,700人が死亡し、600人が労働力としてガレー船に送られました。


 それで、歴史を通して、初期クリスチャンのやり方に帰ることを唱導した人々がいました。それらの人々は迫害され、多くの人々は命を失いました。ある人々は、イエスの助言を自分たちに当てはめて、迫害された場所から逃げて、山や田舎に逃れる人々もいました。


 それらの人々の行動は、まだイエスが預言された時期ではありませんでしたが、首尾よく迫害を逃れた人々もいました。迫害によって流された罪のない神の民の血をご覧になって、エホバは、地に住む者たちに対する血の復しゅうがご自分に対して叫び求められているように感じられることでしょう。


 過去の神の民に対する迫害の歴史については、さらにこれからも取り上げる予定です。