ルカ21章・山に逃げた一世紀のクリスチャン

「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」(ルカ21:20,21)


 イエスは迫害されたら、エルサレムから逃げるようにと助言しておられました。しかし、一世紀のエルサレム会衆の使徒や年長者たちはエルサレムで迫害が起きても、なかなかエルサレムから逃げずにとどまっいたようです。(使徒8:1)しかし、イエスは、冒頭の聖句で示されているようにエルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら、ユダヤにいる人々は、山に逃げるように指示されていました。そして、史実は一世紀のクリスチャンがやはりイエスの指示に従いユダヤの外の山地のペラに逃れたということを示しています。


 それは、西暦66年のことでした。その年にユダヤ人の反乱が起きたため,ケスティウス・ガルスの率いるローマの軍勢がエルサレムに侵攻して市を包囲し,神殿の城壁の所まで進攻しました。ところが,突然,何ら明白な理由もないのに,ガルスは撤退しました。そのため、クリスチャンは、「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。」というイエスの指示を実行に移すことができる機会が与えられました。(ルカ21:20〜22)


 エウセビオスは自著「教会史」の中で,クリスチャンが西暦70年のエルサレムの滅びに先立ってエルサレムユダヤの全地を去って,ギレアデの山地にあるペラという都市へ逃れたことを述べています。その時にはおそらくエルサレム会衆に残っていた使徒や年長者たちの指導が行なわれたでしょう。


 ところで、一世紀のクリスチャンが山に逃れたのは西暦66年でした。それで、彼らは西暦70年、ティツス将軍がもう一度、ローマ軍を率いてエルサレムを攻撃するまで山にとどまっていなければなりませんでした。その時までに、エルサレムの都にもどった人は西暦70年の滅びに巻き込まれました。


 エルサレムにどんなことが起きたのでしょうか。西暦70年には、ローマのティツス将軍がエルサレムを攻撃するために戻ってきて、今度は過ぎ越しを祝う人々で混雑していたエルサレムを攻囲しました。ローマ兵は脱走を防ぐため、攻囲土塁を造って切れ目なく続く柵を市全体の周囲に築きました。これはイエスの預言の成就でした。(ルカ 19:43)市内では、市を出ようとして捕らえられた人たちは裏切り者として殺害されました。それで、その時は、イエスの助言に従うには、遅すぎたことが分かります。


 歴史家のヨセフスによれば,やがて人々は飢きんで苦しむようになり、人々は干し草の束や革を食べ,果ては我が子をさえ食べるほどになりました。(エレミヤ哀歌 2:19,20。申命記 28:56,57)
この都市の征服は,西暦70年4月3日から8月30日までのわずか4か月と25日間で成し遂げられました。したがって,その患難は激しいものでしたが,驚くほど短期間で終わりました。ヨセフスは死者の数を110万人としていますが、9万7,000人の捕虜が連れ去られ、その多くはエジプトへ奴隷として送られたり、ローマ属州の劇場で剣や野獣によって殺されたりしました。山に逃れたクリスチャンはそうした悲惨なことを経験しないですみました。


 一世紀のクリスチャンに起きたことは、大患難の前に山に逃れるクリスチャンのひな形となることでしょう。また、それは大いなるバビロンに住んでいるクリスチャンにとっても、教訓を得られる出来事です。大いなるバビロンの滅びとなる大患難の前に行動するクリスチャンは命を守ることができるということが分かります。


 一世紀においてエルサレムから出る点で、組織的な行動があったのですから、将来大いなるバビロンから出て山に逃れる点で、どこかの組織の指導がなされることを期待したいところです。組織的な行動が取られるならば、経済的に困窮した人でも、行動するのが容易になるでしょう。ところが、現時点では、大いなるバビロンから出る必要があること、山に逃れる必要があることについて、組織としてその教えを奉じている団体はありません。


 しかし、この教えを組織として奉じている団体がいない以上、大いなるバビロンの実体を見分けて確信したならば、個人的にできるだけ早く逃げることが、賢明でしょう。しかしながら、時はまだあるので、時が許されている間、この預言が信頼できるものなのか、大患難の前に大いなるバビロンの外に出て、山に逃れる必要があるのか聖書の預言をじっくり検討してみるようお勧めします。