ヘブライ3章・生命は自然に発生するか

「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。」(ヘブライ3:4)


 自分の進化論を提唱した時、チャールズ・ダーウィンは、生命が「当初は創造者によって幾つかの、もしくは一つの形態の中に吹き込まれた」のかもしれない、という点を認めていました。19世紀までに、ルイ・パスツールが、生命の自然発生説に致命的な打撃を加え、生命はそれ以前の生命のみから来ることを実験によって証明した、とみなされていました。ところが、進化論のために生命の自然発生説が、多少姿を変えた形で復活しました。


 理論上の必要から、進化論は、遠い昔に顕微鏡的な生物が何らかの方法で無生の物質から自然に生じたに違いない、と想定しています。そして、今日の進化論は一般に、創造者についていっさい言及しません。


 では、生命は、偶然に発生するでしょうか。考えてみましょう。


 進化論によって次のような主要な段階を経て生命が自然発生したと想定されています。メタン、アンモニア、水蒸気、二酸化炭素および少数の他の気体から成る原始の大気が紫外線の衝撃を受け、分子が破壊されて原子になり、それらが組み直されてアミノ酸を作ったと、多くの科学者は信じています。これら、および他の有機化合物が水の中に凝集し、有機物のスープの海となり、その中からたんぱく質が作られ、細胞膜を作り、生きた細胞になったとされています。


 では、適切なアミノ酸だけが集まってタンパク質分子を偶然に形成する可能性はどれほどでしょうか。適切なアミノ酸だけが集まってたんぱく質分子を形成することを、赤い豆と白い豆を同じ数だけ取り、それをよく混ぜて大きな山にした場合に例えることができます。その上、それらは100種類以上の豆の集まりです。今、この山に小さなスコップを突き入れて、その中から20種類の赤い豆だけをすくうというのは、可能でしょうか。しかも、その一粒一粒は,スコップ上の,あらかじめ定められた特定の場所に位置しなければなりません。


 このたとえ話の元になるタンパク質の世界では、これらの条件のいずれかがどこかで一つ狂うだけでも、結果として生じるタンパク質の正常な働きは阻害されることになります。


 この仮想上の豆の山をかき混ぜたり,スコップで何度もすくってみたりすることによって,ちょうどふさわしい豆の組み合わせを得ることができるでしょうか。いいえ。それは、何十億年たっても不可能でしょう。では、仮想されている有機物スープの中で、どうしてそのような事が起きるでしょうか。それは決して起こらないでしょう。


 生命に必要なタンパク質は非常に複雑な分子構造を持っています。ほんの単純なタンパク質分子一つが有機物スープの中で偶然に形成される確率はどれほどでしょうか。進化論者たちは、それがわずかに10の113乗(1の後に0を113個並べた数)分の1にすぎないことを認めています。10の50乗に一度の可能性しかないような事柄は,数学的に見て全く起こらないこととして片づけられるのが普通です。ここに関係している見込み,もしくは確率がどの程度のものかということは、10の113乗という数が、宇宙のすべての原子の推定合計数より大きい、という点からも理解できるでしょう。


 たとえ話に戻ると、100種類以上もの赤と白の豆の中から20種類の赤い豆だけを所定の位置に置くというのは、誰かが、20種類の赤い豆だけを一粒一粒すくっていって所定の位置に置くことによって初めて可能になるのではないでしょうか。生命体の一部分であるたんぱく質を構成するだけでも、誰かの意図的な働きが必要でしょう。


 冒頭の聖句のように、聖書は家のように秩序だったもの、組織立った複雑なものには、作った人がいると述べています。聖書の述べるとおり、生命のような組織だった複雑なものは、知性のある誰かが意図的に、創意工夫をこらして造ることによって始めて存在するでしょう。生命が自然に発生することはないのです。