マタイ23章・中世に迫害を受けたウィクリフのロラード派とフス

「わたしは今,預言者と賢い者と公に教え諭す者たちをあなた方のところに遣わします。あなた方はそのうちのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。」(マタイ23:34)


 イエスは、聖書に従って教え諭す者が迫害され殺されることを予告されました。中世においても、聖書に固く従ったクリスチャンの中には、迫害され、殉教した人たちもいます。


 14世紀にイギリスのジョン・ウィクリフは聖書こそ真理の唯一の基準、霊的な事柄に関するあらゆる真の知識の源であることを主張しました。また、オックスフォード大学の教授であり、聖職者であった彼は、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りであるなど、当時英国において絶対的権力を持っていたカトリック教会を真っ向から批判しました。


 晩年になってウィクリフは、ラテン語ウルガタ訳を英語に翻訳しました。同時に彼は、翻訳した聖書を携えて国内を巡る遍歴説教師たちを訓練し地方に派遣しました。ウィクリフの派遣した説教師たちは、ロラード派と呼ばれました。


 ウィクリフの教理は異端的で誤りであるとローマ・カトリックから判定され、ウィクリフはオックスフォード大学から追われます。ロラード派の説教師たちは、イギリス全国を説教して回りました。ロラード派の説教師たちは、霊場もうで、迷信、免罪符、聖人、聖堂、像の使用などを容赦なく非難しました。


 ヘンリー4世によって1401年に成立した「異端火刑法」は、ロラード派に限らず、聖書を所有したり翻訳したりすることを禁じ、これに違反した異端者に対して火刑に処すことを定めました。1408年には、ウィクリフの著書および聖書を英訳して読むことは死に値する異端の罪であるとされました。


 ロラード派の説教師たちの中には、迫害に負けて信仰を否定した者もいましたが、忠節に最後まで自説を撤回しなかったために火刑にされた者も多くいました。


 さらに、ジョン・ウィクリフの思想は、15世紀の初め、プラハ大学の総長になったボヘミヤのヤン・フスに影響を与えました。フスは、ウィクリフの教説に関する一連の講義を行ないました。ウィクリフの教えは当局の非難を浴びていましたが、フスは講義を続けました。フスとその追随者たちはカトリック教会により破門されました。


 カトリック教会は1414年から1418年にかけてコンスタンツ公会議で自分の見解について答えるようフスを召喚しました。 公会議がフスに自分の考えや教えを撤回するよう求めた時、フスは、もし聖書により自分の間違っていることが証明されるなら,喜んで撤回するつもりでいると答えました。


 1415年コンスタンツの宗教会議で、フスは正式に有罪の宣告を受け、火刑に処せられました。火刑の柱に縛られた処刑の場で皇帝の家臣はフスに主張を撤回して命乞いするようにすすめました。 しかしフスは、「私が、間違った証言者に告発されたような教えを説いていないことは、神が知っておられる。私が書き、教え、広めた神の言葉の真実とともに、私は喜んで死のう。」と述べて断りました。


 コンスタンツ公会議はすでに死んでいるジョン・ウィクリフにも刑を宣告しました。それは、12年の後ローマ教皇の命により実行されました。彼の墓は暴かれ、遺体は燃やされて、英国のスィフト川に投じられました。


 後に、フスの一番際立った追随者である、プラハのヒエロニムスもまた、火刑に処せられました。


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