サムエル第一21章・うそが容認される時

ダビデは祭司アヒメレクに言った,『王がある事柄に関してわたしに命じ,さらにこう言われました,「わたしがお前を遣わし,またお前に命じた事柄についてはだれにも何も知らせてはならない」。それで,わたしはしかじかの場所で若者たちと落ち合うことにしています。それで今,もしあなたの自由になるパンが五つありましたら,それを,あるいはあるものを何でも,わたしの手に渡してください』」。(サムエル第一21:2,3)


 ダビデはサウル王からの逃亡中、祭司アヒメレクにパンを所望した時に冒頭の聖句のように、うそを言いました。イエスはこの事例を引用して緊急時には基本的に祭司だけに許された供え物のパンを食べたことに言及されました。しかし、イエスはその時ダビデがうそを言ったことをとがめませんでした。(マタイ12:3,4)


 ダビデはとりわけ、何の罪もないのにサウル王から命を守るために逃げなければならない状況でした。祭司アヒメレクは、ダビデがサウルから逃亡中だと知らないで助けて後でサウル王から殺されてしまいました。(サムエル第一22:16〜18)ダビデも祭司アヒメレクに正直に話していたら、ダビデは居場所を通報されてサウルから殺される結果になったかもしれません。


 それで、聖書は正直に自分の居場所を話すと命が危険なような時、すなわち、自分の命を守らなければならない危機的な状況の時にうそを言うことをとがめていないようです。


 他にもラハブがエリコを偵察にやってきたイスラエル人の二人のスパイをラハブはうそを言ってかくまった例があります。(ヨシュア2:4〜6)このことも、聖書は非難していません。かえってラハブはイスラエル人の側に立ったので、エリコを滅びの時、奇跡的に守られて命を生き永らえることになりました。


 それで、たとえばクリスチャンが迫害から身を守るために逃げなければならない時などに、クリスチャンやそのクリスチャンをかくまう人が身を守るためにうそを言ったとしても、容認されることが分かります。私たちはそのような際に他の人をとがめないようにすべきです。


 聖書は「おのおの隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは肢体として互いのものだからです。」と助言しており、とりわけ真の信仰で結ばれた仲間のクリスチャンに対して、正直であることを強調しているようです。(エフェソス4:25)しかし、聖書は迫害者たちにまで、真実を語る責務をクリスチャンに負わせてはいないようです。


 しかしながら、聖書は基本的にいつも正直であるように勧めているのですから、こうした事例を乱用するのではなく、敵と考える人に対してもできる時には、うそを言わないように努める方が良心的とは言えるでしょう。(ヘブライ13:18)


 可能であれば、うそを言うのではなく、イエスがされたように問題を起こしてしまうような事実を黙っている方がいいでしょう。(マタイ21:27)