ヨハネ15章・イエスは愛ゆえに進んで命を投げ打たれた

「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません。」(ヨハネ15:13) 


 イエス・キリストは望まないのに捕らえられて殺されてしまった失敗者であると考える人は少なくありません。しかし、イエスが捕縛された状況を良く調べてみると、イエスは進んで捕らえられたということが分かります。イエスは決して、望まないのに捕らえられたのではなく、自ら進んで人類のための贖いの犠牲となるために命を投げ打たれたことが分かります。


 西暦33年のニサンの14日、イエスは11人の使徒たちとエルサレムで記念式を済まされた後、ゲッセマネの園で、エホバに祈りをされました。その後、イエスが三人の使徒たちとおられるところに、イスカリオテのユダが祭司長やパリサイ人を含む大勢の群衆を率いてやって来ました。


 その時、イエスは、自ら進み出て、「あなた方は誰を捜しているのですか。」とお尋ねになります。「ナザレ人のイエスを」という答えが返ってくると、イエスは雄々しく、「私がその者です。」とお答えなります。それから、イエスは「わたしがその者ですと告げたではありませんか。それゆえ、あなた方の捜しているのがわたしであれば、これらの者たちは去らせなさい。」と言われました。(ヨハネ18:4〜8)


 イエスが自らご自分であると明らかにされ、自ら進み出て捕らえられたことが分かります。イエスは逃げられなかったのでしょうか。そうではありません。それまでも、イエスは殺されそうになったり、つかまりそうになったりしたことがありました。けれども、逃げたい時には逃げておられました。


 例えば、ナザレで、人々がイエスを市の外へせき立て山のがけ端から、さかさに投げ落とそうとしましたが、イエスは人々の真ん中を通り抜けてそのまま進んでいかれたという記録もあります。(ルカ4:29,30)それで、それまで絶体絶命に見えた時でも、イエスは望むなら、その状況を切り抜けることができました。しかし、イエスは最後の時はそうされませんでした。


 さらに、その時にイエスが進んでご自分から捕らえられたことは、続くイエスの言動からも分かります。兵士たちがイエスを捕らえようとした時、使徒たちは、「主よ、剣で撃ちましょうか。」と尋ね、ペテロは剣を振るい、大祭司の奴隷マルコスに攻めかかって奴隷の右の耳を切り落とします。すると、イエスは「それまでにしなさい。」と言われ、マルコスの耳の傷をおいやしになりました。(ルカ22:49〜51)


 それから、ペテロに「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。それともあなたは、わたしが父に訴えて、この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか。そのようにしたなら,必ずこうなると[述べる]聖書はどうして成就するでしょうか。」と言われました。(マタイ26:52〜54)


 それで、イエス使徒たちに守ってもらおうとされませんでした。またエホバに助けて欲しいとお願いもしませんでした。


 イエスは、ご自分について人類の罪を贖うための犠牲となって死ぬという預言がダニエル書やイザヤ書にあることをご存知でした。(ダニエル9:24,26,27; イザヤ53:10〜12)イエスは聖書の預言に調和して、自分から進んで捕縛されました。冒頭のイエスの言葉のように、イエスが自ら進んでご自分の命を投げ打たれたのは、ご自分に信仰を働かせる者たちに対する愛からでもありました。


 イエスの贖いの犠牲は首尾良く備えられ、望む人に永遠の命を与えるための根拠となりました。私たちはイエスが自発的に、私たちのために命を投げ打ってくださった愛に感謝できるのではないでしょうか。私たちはイエスの贖いに信仰を働かせて、イエスの権威に従うならば、永遠の命をいただくことができます。(ヨハネ3:16)