エゼキエル9章・大患難の前に自給自足の生活が賢明である理由

「その銀も金も、エホバの憤怒の日に彼らを救い出すことはできない。それは・・・彼らのはらわたを満たすこともない。」(エゼキエル7:19)


 イエスは、大患難が起こる徴候を見分けたならば、クリスチャンに山に逃げるようにと助言されました。(マタイ24:15,16) もちろん、神の民は地上の楽園で自給自足の生活をすることになっています。(イザヤ65:21)


 しかし、大患難の前に山に逃れる時に、自給自足の生活をするのが賢明だと言えます。なぜでしょうか。


 イエスは大患難の時に厳しい食糧不足があることを予告されました。(マタイ24:19)神の民はそのような厳しい食糧不足の時も、自給自足に努めているならば、お金はありませんが、命を支える食物はあるでしょう。


 もちろん、山に逃げるならば、ある人たちは余分の農作物を販売して幾ばくかの現金収入を得られるでしょう。しかし、それはわずかでしょう。それで、山での自給自足の生活とは、現金収入や現代の便利なものをある程度あきらめないといけないことを意味しています。


 しかし、大患難の時に大切なことは、命が救われることです。古代バビロンによるエルサレムの滅びの時を預言した聖句を冒頭に示しました。エルサレムの滅びの時には、お金があっても、救われることにはならなかったでしょう。また、その時、お金は、人々のはらわたを満たすこともありませんでした。(エゼキエル7:19)それで、大患難の時には、お金があっても、救われることにはならないでしょう。また、大患難の時には、食糧そのものが不足するので、お金があってもお腹を満たすこともできないでしょう。


 これは、バビロンからエルサレムが攻撃される時期に、エホバが「すべてのパンが都市から尽きてしまうまで」毎日エレミヤに「丸いパン一つ」が与えられるように取り計らわれたことを思い起こさせます。(エレミヤ 37:21)エレミヤがエルサレムの患難の時に食べることができたのは、毎日パン一個にすぎませんでした。


 大患難の時には、誰もぜいたくはできないでしょう。生き永らえるために必要な食糧を得るだけで精一杯でしょう。これは、山に逃れて自給自足しようと努めていたら、可能になるでしょう。


 イエスは「満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じない」と言われました。(ルカ12:15)山に逃れる時に、この言葉は本当によく当てはまることになるでしょう。その時、都市にとどまるならば、お金や所有物はあっても、大切な命を失う人は多いことでしょう。(ルカ17:31) イエスの助言に従って山に逃げ、以前住んでいた都市はミサイル攻撃を受けて壊滅しても、自分は山に逃げたために命は助かったという人も大勢いるに違いありません。


 聖書は基本的に、「自分の土地を耕す者は自らパンに満ち足り(る)」と述べています。(箴言12:11)ですから、農業をするなら、基本的に飢えることを避けられるでしょう。


 しかしながら、今日世界で農村に生活していながら、飢えている人がいる事実は、ただ単に山や田舎に住むだけでは飢えの問題が解決しないということを示しています。飢えの問題を解決するためには、農業の知識や技術が必要です。聖書は物事を成功させるために何事にも熟練が必要であることを述べています。(箴言22:29)


 それで、大患難の際に、またその後にクリスチャン相互の助け合いによって農業の知識や技術や能力を与え合うことが不可欠になるでしょう。また、その時クリスチャンは困窮した仲間を顧みるように努めることが求められます。(ヨハネ13:34)彼らは一人暮らしのやもめや孤児を顧みるように努めることでしょう。(ヤコブ1:27)彼らの助け合い、支え合いのために多くの人がその患難を乗り切るよう助けられるでしょう。


 パウロは、「命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです。」と述べています。(テモテ第一6:8)戦中戦後、厳しい迫害と食糧不足が臨む時に命を永らえることができ、命を支える食物があるということは、感謝すべきことではないでしょうか。


 神の民は、将来、大患難が来ることを考えるならば、将来自給自足をする生活に切り替えることを念頭に置いておくことが賢明でしょう。