啓示22章・神はすべてを前もって予知し定められますか

「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい。」(啓示22:17)


 エホバは聖書の中でご自分が、予知力をお持ちであることを明らかにしておられます。では、エホバは被造物についてすべての事柄を予知し、あらかじめ定めておられるのでしょうか。すべての物事の結末に対して、神に責任があると言えるのでしょうか。聖書を調べて考えてみましょう。


 確かに、エホバはイザヤ書の中でご自分のことを「終わりのことを初めから、また、まだ行われていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち、わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者。」と述べておられます。(イザヤ46:9,10)ですから、神は、ご自分の目的を立てられ、ある事柄を予知されます。そして、それらの事柄を確実に成就される全能の力を持っておられます。


 しかし、それは、すべての事柄を神が生じさせるという意味ではありません。例えば、昔エホバはイスラエル人をエジプトから救い出して、約束の地に携えいれようとする前に、イスラエル人が約束の地に定住したなら、「他の神々に身を向け、まさにそれに仕えてわたしに不敬な態度を取り、わたしの契約を破るであろう」と予告されました。


 エホバはイスラエル人が、約束の地でご自分に不従順になり、他の神々を崇拝するようになり、モーセの律法契約を破るようになることを予告されました。


 エホバがこのように予知されたのはどうしてだったでしょうか。エホバは「自分が誓った地へ携えいれる前の今日すでに彼らが現している性向をよく知っているのである」と言われました。(申命記31:20,21)


 それで、エホバはイスラエル人が既に表わしていた反抗的な性向からして、約束の地に入ってもイスラエル人がやはり反抗してモーセの律法契約に違反することを予見されました。しかし、神はイスラエル人の歩みの結末を見抜く能力をお持ちでしたが、それは、そのような結末を神が望んでおられたとか、そのような結末に対して神に責任があるという意味ではありませんでした。


 例えば、気象予報官は観測する事柄に基づいて、かなり正確に天気を予報できますが、自分がそのような天気にするわけではありませんし、また必ずしもその天気が好きだというわけではないのと同様です。


 また、神は予知力をお持ちですが、それはすべての被造物のすべての行動について予知されるという意味ではありません。エホバは被造物の自由意志を尊重されます。なぜなら、冒頭の聖句にあるように永遠の命をもたらす霊的な水を飲むことは誰にも強制されていません。「だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい。」と述べられています。(啓示22:17)ですから、望む人が命の水を飲むことができます。


 もし、ある人が救われるとか、救われないとかが決まっているのであれば、命の水を飲むように勧めるのは意味のないことです。命の水を飲むかどうかはあらかじめ定められていません。それは、個人個人に任されています。ですから、神はすべての人の行動について予知されるわけではありません。


 例えば、ラジオを持っている人は、世界のニュースを聞くことができますが、ある放送局の番組を聞くことができるからといって、実際にそうするというわけではありません。その人は、まずラジオのスイッチを入れてそれから放送局を選定しなければなりません。同様にエホバは出来事を予知する能力をお持ちですが、聖書の示す所によれば、エホバはご自分が人間に与えた自由意志を尊重し、その予知力を選択的に限定的に行使されます。


 それで、エホバは被造物のすべての行動をあらかじめ予知されるわけではありません。また、エホバが予知力を働かせた時も、生じるすべての事柄をエホバが望んでおられるとか、すべての結末にエホバに責任があるとは言えません。


 私たちは、個人個人、自分の将来にとって良い結果になることを自由意志を働かせて自分で自由に選ぶことができます。