使徒17章・どうして自殺すべきではないのですか

「ご自身がすべて[の人]に命と息とすべての物を与えておられるからです。」(使徒17:25)

今日の世界で自殺する人は少なくありません。国立精神・神経医療研究センターによれば、自殺によって毎年全世界で約100万人が死亡しており、世界疾病負担の1.4%を占めています。


 警察庁のまとめによると2010年の自殺者数は3万1560人。1998年以来13年連続で年間3万人を超えました、2010年の自殺者数は、同年の交通事故死者数4863人の約6.5倍に上り、その深刻さが伺えます。


 国別の自殺率でみると日本は4位で、日本以外の上位7カ国はガイアナを除けばすべて旧社会主義国旧ソ連)が占めています。旧社会主義国が自殺率で上位を占めていることを考えると、国家の深刻な状況もさることながら、頼る宗教がなく命や自殺に対する健全な見方が持てないところでは、自殺率が高くなっているようです。


 それで、私たちは聖書から自殺に関する神のお考えを知る必要があります。では、なぜ自殺をすべきでないのでしょうか。聖書は何と述べていますか。


 人生にさまざまな問題はつきものです。さまざまな問題に直面した時に、聖書時代の忠実な男女も生きていくことに対する意欲を失ったということを聖書は述べています。


 たとえば、族長イサクの妻リベカは,家族内の問題で強いストレスを感じたため,「わたしは……自分のこの命をたいへんいとうようになりました」と語りました。(創世記 27:46)ヨブは,子どもたち,健康,富,社会的立場を失い,「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる」と言いました。(ヨブ 10:1)モーセはある時,自分の民族の仲間内で起こった問題のために、神に対して,「どうぞわたしをいっそ殺してしまってください」と叫びました。(民数記 11:15)神の預言者エリヤはかつて,「これで十分です! さあ,エホバよ,私の魂を取り去ってください」と言いました。(列王第一 19:4)さらに,預言者ヨナは,「わたしは生きているより,死んでしまったほうがましだ」と繰り返し述べました。(ヨナ 4:8)

 エホバは,そのように感じた人たちをとがめられましたか。いいえ。エホバは,その人たちの述べた言葉を聖書中に保存することまでされました。とはいえ,それら忠実な人たちのうち,感情に駆り立てられて自殺した人は一人もいなかった,という点を銘記するのは肝要です。


 一方、聖書の中には、自殺した人のことが記録されています。それらの人々の自殺について聖書は好意的に述べているとは言えません。例えば、自殺した一人は、十二使徒のひとりだったイスカリオテのユダで、彼はイエスを裏切りました。彼は、「義なる血を売り渡して罪を犯した」と言って、自殺をしました。イエスは、彼を「滅びの子」と呼びました。(ヨハネ17:12)


 また、不忠実だったサウル王も、致命的な傷を負った後、自分の武具持ちに自分を殺すように求めましたが、武具持ちがそうしなかったので、サウルは自ら剣の上につっぷして死にました。聖書はそのように神から非とされた人が自殺をしたことを述べて、自殺が望ましくないものであることを示しています。


 では、神に忠実な僕は、なぜ自殺をしなかったのでしょうか。それは、彼らが命は神からの贈り物であることを認識していたからでもあります。詩編36編9節には、「命の源はあなたのもとにあ(る)」と述べられており、使徒17章25節にも、神が「すべて[の人]に命と息とすべての物を与えておられるからです。」とあり、私たちの命がもともと神のものであり、私たちの命は神からの私たちへの贈り物であることを示しています。


 では,あなたがある人に高価な贈り物をしたのに,その人がそれを実際に使わず捨ててしまうとしたら,あなたはどのように感じますか。私たちの命は、もともと神のものですから、命は、与えられた人が自分勝手にしていいものではありません。命は天の父からの贈り物であるので、人間には故意に自分を傷つけたり命を絶ったりする権利はありません。神は私たちが命の贈り物を大事にすることを望んでおられます。


 神は、私たちが生き続けるように望んでおられます。事実、神は邪悪な人たちさえ生き続けるよう望んでおられます。神は「邪悪な者の死ではなく、邪悪な者がその道から立ち返って、実際に生き続けることを喜ぶ。」と述べられています。(エゼキエル 33:11)であれば,義を行なって神の恵みを得ることに関心のある人々には,なおのこと生きつづけてほしいと願っておられるでしょう。


 神は、私たちが与えられた命を大切にするように望んでおられます。聖書の中でもっとも大切なふたつの律法のひとつは、「あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない。」という掟ですが、この掟は根底に自分を愛さなければならないという意味があります。また、「自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,また大切にします。」とも述べられています。(エフェソス5:29)ですから、自分自身を大切にすることによって、自分を愛することが必要です。


 先にも述べた通り、神の僕も生きていることに意欲を失いかけたことがありました。しかし、エホバは彼らを高く評価し,生きつづけてほしいと思われました。そして、彼らが生きる意欲を失わないために助けを差し伸べられました。問題が解決すると、それら忠実な神の僕は、再び生きる意欲を取り戻しました。ですから、生きる意欲を失わせるような難しい問題がある場合、エホバ神に助けを祈り求めることが必要です。


 神は,み子の贖いの犠牲や聖書,そして祈りの特権を備えてくださいました。こうした備えは、神が私たちに永遠の命を望んでおられるばかりか、現在でも生き続けるように願っておられることを示しています。


 生きる意欲を失わせる問題については、神に祈って助けを願い求めましょう。神は,謙遜で誠実な心をもってご自分に近づく人すべての言葉を聞く能力と意志をお持ちです。エホバ神からの助けを得て、神から戴いた命の贈り物を大切にしましょう。


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