マタイ26章・イエスは杭の上で神に対する確信を失ったのですか

「第九時ごろ,イエスは大声で呼ばわって,『エリ, エリ, ラマ サバクタニ』,つまり,『わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか』と言われた。」(マタイ26:37)


 イエスは、西暦33年のニサン14日第9時ごろ、つまり午後3時頃、苦しみの杭の上で、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか」と言われました。イエスは、苦しみの杭の上でエホバ神から見捨てられたと考えてエホバに対する確信を失ったのでしょうか。


 そうではありません。イエスは聖書にあるご自分に関する預言に関心を持っておられました。イエスが言われたその言葉は、詩篇22編1節にある言葉です。それは、ダビデの書いた詩篇であり、こうあります。「わたしの神、わたしの神、なぜあなたはわたしをお捨てになったのですか。」


 イエスはなぜ杭の上でこの聖句を言われたのでしょうか。詩篇22編は、ダビデの書いた詩篇ですが、その中の聖句は杭の上のイエスに顕著に成就しました。


 例えば、詩篇22編7,8節は、「わたしを見る者は皆わたしをあざ笑います。・・・『彼はエホバに身をゆだねたのだ。その方に逃れさせてもらえ。その方に救い出してもらえ。その方は彼を喜びとされたからだ。』」となっています。


 イエスも杭の上でこの聖句と似たような嘲弄を受けました。例えば、マタイの記録によると、祭司長たちや書士や年長者たちは一緒にイエスを愚弄し、「彼はイスラエルの王だ。今、苦しみの苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたら我々も彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるのなら、いま神に救い出してもらうがよい。『わたしは神の子だ』と言ったのだから。」と言いました。(マタイ27:39〜42。ルカ23:35〜37)


 イエスは杭の上で嘲弄を受けた時、詩編22編を思い出されたに違いありません。


 また、詩編22編18節には、「彼らはわたしの衣を彼らの間で配分し、わたしの衣服の上でくじを引きます。」と預言されていましたが、この聖句もイエスの上に成就したと使徒ヨハネが証言しています。イエスを杭につけてから、兵士たちはイエスの外衣を取り、四つに分けて、各兵士にその一つずつとしました。しかし、内衣の方は、縫い目がなく、そっくり織ったものだったので、兵士は、だれのものとするか、くじで決めることにしました。それで、詩編22編18節の聖句が成就しました。(ヨハネ19:23,24)


 イエスは杭の上から、兵士たちのしていることをご覧になってこの詩編22編の聖句が成就したことを気づかれたことでしょう。


 ダビデは、敵の手に陥り、苦難を経験し、あたかもエホバから見捨てられているように見えましたが、詩編22編の中でダビデは決してエホバ神への確信を失ってはいません。


 たとえば、詩編22編24節には、「神は苦しむ者の苦悩をさげすむことも、忌み嫌うこともされなかったからだ。神はみ顔をその者から覆い隠されたこともなく、彼が助けを求めて叫ぶとき、聞いてくださったのである。」とダビデは語っています。


 イエス詩編によく精通しておられました。それで、詩編22編1節の言葉を語られた時、詩編22編の他の聖句に調和して、エホバ神がイエスを復活によって死から救い出してくださることに望みをおいておられました。


 イエスが杭の上でエホバ神に対する確信を失っておられなかったことは、復活後のイエスの言葉からも分かります。イエスは、弟子たちに「まだあなた方と共にいた時に,わたしが話した言葉はこうでした。つまり,モーセの律法の中,そして預言者たちと詩編の中にわたしについて書いてあることはみな必ず成就するということです。」と言われました。(ルカ24:44)イエスは、聖書の預言の言葉がすべて成就することに確信を持っておられました。


 イエスは、ダニエル書やイザヤ書などの人々の罪の贖いのためにご自分が犠牲となるという預言をご存知でした。(ダニエル9:24,26。イザヤ53:10〜12)また、詩編にあるご自分が苦しみを受けるという預言も理解しておられました。


 それで、イエスは杭の上でも、詩編22編の聖句がご自分に成就することに関心を持っておられました。イエスは、ダビデが経験したようにご自分が苦難を経験され、あたかもご自分がエホバ神から、見捨てられたようにみえることを理解しておられました。


 しかし、ダビデがそうであったように、苦難にあってもエホバ神に対する確信を失われたわけではありません。イエスは、聖句が成就するために詩編22編1節の言葉を語られたのでしょう。 


 イエスは、ご自分の苦しみと死と復活について何度も予告しておられました。それで、イエスは杭の上でも、エホバ神がご自分を復活させてくださることに依り頼んでおられました。
エスは地上での死の最後に至るまで、エホバ神への確信を失われませんでした。


 イエスは苦しみの杭の最後に至るまで、エホバ神への確信と忠誠を保たれました。そして、首尾よくご自分の体と血を人類の罪のための贖いの犠牲として捧げられることに成功されました。


 神の民は、イエスの行なわれたことを思い起こすために、2011年4月17日(日)にキリストの死の記念式を行います。どうぞ、日没後にエホバの証人の王国会館の記念式にご出席ください。エホバの証人の記念式の始まる時刻は、地方によって、異なります。6時半に始まったり、7時に始まったりすると思います。正確には、地元のエホバの証人にお尋ねください。



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