テサロニケ第二2章新共同訳・続「聖霊体験」は神の霊が注がれた証拠ですか

「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業を行ない・・・」(テサロニケ第二2:9 新共同訳)


 先日、「ルカ9章新共同訳・『聖霊体験』は神の霊が注がれた証拠ですか」の中で聖霊体験の特徴が悪霊から攻撃されている特徴であることを聖書から論じました。


 すると、ヤフーブログで、記事の中にある「ネット上の概念はあまり正確とはいえないと思いますが、どこから取ったものでしょうか?」という質問のコメントがありましたので、私が引用したネットの出所を示したいと思います。
 

 礼拝中に、「牧師の叫びやバックグラウンドの激しい音楽、会衆の叫びによって、マインドコントロールされた状態に陥るのが聖霊体験だ」という部分、「聖霊体験をして倒れてしばらく動けなかった、礼拝中に泣きじゃくって涙が止まらなかった」という部分は、「[http://melma.com/backnumber_151487_3314240/:title=聖霊に導かれる(5) [成長するクリスチャン]] 」からの引用です。


 聖霊体験をすると、「牧師に手を置かれて、あるいは背中を押されて、ステージでばたばた倒れる」ことがありますというのは、「聖霊−体験と教義―成長するクリスチャン」からの引用です。


 今回は、奇跡はその体験をする人たちに神の霊が臨んでいる証拠ではないという聖書的根拠を、さらに示したいと思います。


 確かに、一世紀のクリスチャンに神の霊が臨んでいたことは,彼らが行なうことのできた奇跡によって裏付けられました。エホバは当時のクリスチャンに特別な力を授けました。しかしその力は特別な目的を果たすためでした。


 神は選び出された「御自分の名を信じる民」は、もはやユダヤ人の会衆ではなくて設立まもないクリスチャン会衆であるという「証し」を、「しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物」によって行なわれたのです。(ヘブライ 2:4新共同訳)ひとたびこの事実が十分に確立されたとき、このような奇跡的な賜物はもはや必要ではなくなりました。


 神の聖霊による奇跡的な賜物はいつまでもクリスチャン会衆とともにとどまるものではないことになっていました。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と予告されていました。(コリント第一13:8新共同訳)ですから、奇跡的に預言が与えられることや、異言、学んだこともないのに奇跡的に与えられる知識はいずれなくなってしまうことになっていました。では、それらのものはいつなくなったのでしょうか。


 使徒 8章18節は、「使徒たちが手を置くことで」霊の賜物が与えられたことを明らかにしています。ですから、霊の賜物の奇跡が伝えられるためには、使徒たちの存在が必要でした。それで最後の使徒が死んだ後、異言などの霊の賜物を分け与えることはなくなりました。したがって、一世紀に奇跡的な賜物を使徒たちから与えられた人々が地上からいなくなった時、奇跡の賜物は消滅しました。


 それでは、今日起こっている聖霊体験、つまり異言や幻を見ることなどの奇跡は、何を示しているでしょうか。今日の聖霊体験、つまり奇跡やしるしは、真の宗教に伴うものではありません。なぜなら、「サタンの働き」は「あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業」によって示されるとパウロは警告しているからです。(テサロニケ第二 2:9新共同訳)


 また、イエスは、終わりの時に、「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」ことを予告されました。(マタイ24:24新共同訳)ですから、聖霊体験は、終わりの時に、神の霊が注がれた証拠ではありません。かえって聖霊体験は悪魔サタンや悪霊が働いている証拠となります。


 それで、聖霊体験をする人は、神に近づいたように見えても、実際は、悪魔サタンと悪霊によって欺かれています。聖霊体験をする人は、悪霊に惑わされていますから、聖書を正しく解釈できません。ですから、聖霊は三位一体の神の一つであるという教えは、悪霊に影響されている教義だと言えます。聖霊は、神が用いる聖なる力であり、私たちが崇拝するべきものではありません。


 私たちは聖霊体験によってではなく、聖書の正確な知識によって、真の神エホバに近づき、崇拝しましょう。私たちは、聖霊体験を求めるのではなく、それから離れており、聖書の正確な知識を求めましょう。



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