マタイ24章・忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか

「主人が、時に応じてその召使たちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して、そうしている ところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命してすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。」(マタイ24:45−47)


 エスは、その召使たちに食物を与えさせるために、忠実で思慮深い奴隷を任命すると言われました。そしてイエスはその忠実で思慮深い奴隷に大変大きな権威を与えます。イエスは、彼にすべての持ち物をつかさどらせると述べられています。この忠実で思慮深い奴隷とは誰でしょうか。


 ルカの並行記述は、「忠実で思慮深い奴隷」が「忠実な家令、思慮深い者」、「召使いたち」が「従者団」となっています。(ルカ12:42)


 エホバの証人は従来、忠実で思慮深い奴隷とは「油そそがれたクリスチャン全員」であると解釈してきました。(ものみの塔2013 7/15 20p3節)しかし、最近、忠実で思慮深い奴隷は、エホバの証人の統治体であるという解釈がものみの塔に掲載されました。(ものみの塔2013年7/15  22p10節)また、その解釈によると、統治体の兄弟たちが有能であるがゆえに、任命され忠実な思慮深い奴隷とされました。(ものみの塔2013年7/15 23p12節)



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有能なエホバの証人の統治体の兄弟たちだけが忠実で思慮深い奴隷でしょうか


 エスが任命する忠実で思慮深い奴隷とはだれでしょうか。イエスは、有能な油そそがれたクリスチャンだけを任命するでしょうか。聖書は何と言っているか調べてみましょう。

 まず、分配されるべき「食物」とはなんでしょうか。イエスは「食物」をいろいろな比ゆ的な意味で使っています。(ルカ4:32-34)それで、イエスは、神のご意志を行なって神の御業を成し終えることをご自分の「食物」だと言われたことがありました。


 エスは、また、ご自分を「真の食物」に例えられたことがありました。イエスは、「わたしの肉は真の食物であ(る)」と言われ、「これは天から下って来たパンです。・・・このパンを食する者は永久に生きるのです」と言われました。(ヨハネ6:54-58)


 聖書はイエスご自身が贖いとして与えられたと述べられています。(テモテ第一2:6)イエスの体は、人類のための贖いとなり、人々を永遠の命に導きます。ですから、贖いを中心としたイエスの教えは、食物です。(ヨハネ6:27)


 さらに、聖書によると、「乳」は、「キリストに関する初歩の教理」です。また、「固い食物」は、円熟した人々が摂取できる「義の言葉」で、聖書中のより一層高度な教理です。(ヘブライ5:12-6:2)ですから、食物とは聖書の教えや神のご意志を行うことです。


 ですから、イエスが追随者に与える宣教を行なうことなどの命令や指示も食物に含まれるでしょう。(マタイ24:14;28:19,20)それで、忠実で思慮深い奴隷はそうした教え指示を分配しているはずです。


 それでは、「忠実な奴隷」とは、聖書の中で誰を表わしているでしょうか。イエスのたとえ話によると神の忠実な奴隷は、さまざまな程度の能力を持っています。


 エスは、「タラント」を「奴隷たち」にゆだねるというたとえ話をされたことがあり ました。イエスは最初に、「五タラント」、「二タラント」、「一タラント」と「各自の能力に応じてひとりひとりに与え(ます)。」そのことは、イエスが能力の程度にかかわらず、ご自分の弟子に、宣教の務めを与えることを意味しています。




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タレントのたとえ話の中ではさまざまな程度の能力の忠実な奴隷が任命されることになっています


 そして、「奴隷」は忠実でありさえすれば、能力と成果の程度にかかわらず、イエスによって「善良で忠実な奴隷」として「任命」され、多くのものをつかさどるという結果になります。(マタイ25:14,15,21-23)


 ですから、イエスは、有能な油そそがれたクリスチャンだけを、「忠実な奴隷」と考えることはありません。イエスのタラントのたとえ話は、有能なエホバの証人の統治体だけが、忠実な奴隷であるという解釈が間違っていることを示しています。


 「多くのものをつかさどらせる」というこのイエスの最終的な任命は、天で王として奉仕するという務めに任命されるということを意味すると思われます。「多くのものをつかさどらせる」ということが、この地上で成されることがあるのでしょうか。私は、現時点では、油注がれたクリスチャンの地上での責任が増えるという聖書の記述は思い当たりませんが、聖書をさらに検討していきたいと思います。

 さらに、イエスは弟子たちが天の王として最終的に任命される時だけ任命されるのではありません。イエスが、ご自分の油そそがれた弟子たちを選ばれた時点で、 「任命」されています。


 エスは、地上の死の前日に、使徒たちと食事をとった時に、こう言われました。「わたしがあなた方を選び,あなた方が進んで行って 実を結びつづけ,しかもその実が残るようにと,わたしがあなた方を任命したのです。」(ヨハネ15:16)


 エスは忠実な使徒たちだけを「任命」されたのでしょうか。そうではありません。イエスが任命された目的は、「実を結ぶ」ことです。実を結ぶというのは、イエスの「弟子であることを示すこと」を意味しています。(ヨハネ15:8)ですから、イエス使徒たちだけを任命したのではなく、弟子となった者をすべて任命されています。



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エスの弟子たちすべてが弟子であることを示すという実を結ぶことを目的に任命されています


 それで、14万4千人の油そそがれたクリスチャン全員、天的な希望を持っている弟子であることを示すクリスチャン全員が聖霊で油そそがれた時点で、イエスの「奴隷」として任命されていると言えます。

 さらに、「花婿を迎えに出た十人の処女」のたとえ話の中でも、光をともすという務めを行なう「五人は思慮深い者」と呼ばれています。(マ タイ25:1,2)ですから、イエスに忠実であれば、花嫁級はみな「思慮深い者」です。



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十人の処女のたとえ話の中でも光をともすという務めを忠実に行う者は思慮深い者とみなされます−イエスに是認されるかどうかを決めるのは能力ではなく忠実さです


 その「奴隷」が「思慮深い者」になるか「愚かな者」となるかどうかは、油そそがれたクリスチャン各自の能力ではなくイエスの指示を忠実に行うかどうかに依存しています。(マタイ25:1-9,24-27)


 これらの聖書的根拠から、油そそがれたクリスチャン全員は、イエスに選ばれた時点で、「任命」されています。エ ルサレム会衆の使徒たちや年長者団だけでなく、イエスのことばを忠実に守る油そそがれたクリスチャン全員は、みな能力の程度にかかわらず「忠実で思慮深い 奴隷」と言えます。例えば、パウロエルサレム会衆の使徒たちと年長者に含まれていませんでしたが、イエスから任命されていました。

 ですから、エホバの証人の統治体の兄弟たちだけが、有能であるという理由で「忠実で思慮深い奴隷」であるという解釈は、聖書的に正しく ありません。


 また、聖書の中で「従者」は「奉仕者」とも呼ばれています。(列王第二6:15)ですから、イエスに従う弟子たち、イエスの「奉仕者」たちは天的希望であれ、地的な希望であれイエスの「従者団」でしょう。


 忠実で思慮深い奴隷は、「従者団」に「食物」を分配します。これは、イエスの教えを中心とした霊的食物を仲間のクリスチャンに分け与えることも意味している でしょう。また、「食物」には、エホバのご意志を行なうという意味もありますから、油そそがれたクリスチャンが、仲間のイエスの弟子たちに、さまざまなエ ホバのご意志に関連した仕事を与える経路になることも意味しているのかもしれません。


 私は、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、「忠実で思慮深い奴隷」は油そそがれたクリスチャン全員であるという理解から離れたことは、聖書に基づく解釈から の後退だと思います。エホバの証人の統治体の兄弟たちが、これらの聖書的根拠を検討して、是非聖書の正確な解釈に戻るようにお勧めしたいと思います。


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