続々・政府に同意できない場合どうすることができますか

 

 もしどうしても事情が許さず、北の王と南の王の国家に住む場合は、神に保護を祈り求めつつ、神に依り頼んで神の律法を守り、政府に対して敬意を払い、武器をとって政府に対抗しないようにするのが賢明です。


 そのように政府に服するのが賢明なのはなぜでしょうか。また、政府に同意できない場合、一つの方法として、裁判に訴えるという方法があります。


〇聖書はクリスチャンに政府に服すことを勧めている


 聖書は政府を「上位の権威」と述べています。そして、上位の権威は、「神の取決め」によって「その相対的な地位に据えられている」と述べています。そして、クリスチャンに上位の権威に服するようにと勧めています。(ローマ13:1,2)


 ですから、クリスチャンは、第一に神に従うのが正しいことですが、神への崇拝と神の律法への従順に反さない限り、政府に服することが神のご意志です。


 聖書は、昔の流血の国家であったバビロンに住んでいたダニエルや他のユダヤ人が、バビロンの政府の中で、良い立場を保って保護されていたことを述べています。(ダニエル2:49)もちろん、バビロンは、バビロンの王すなわち国家に対する崇拝を求めるところだったので、ユダヤ人たちは、バビロンの王を崇拝しようとしなかった時、命が危険にさらされたこともありました。(ダニエル3:14,15)


 しかし、彼らは神の保護を受けました。(ダニエル3:30)ダニエルを初めとしてユダヤ人たちがバビロンで生き永らえることができたのは、彼らが神の崇拝と原則に反しない場合は、基本的にバビロンの政府に服していたからでもあります。彼らは神に依り頼んで神を第一にしたので、神からの助けを得、ある程度王からの敬意も得ていました。





Shadrach, Meshach and Abednego in the Furnace (shadrach2)
ダニエルの3人の友は神の崇拝を第一にしてしかもふだんは王に協力的であることが知られていたので試練を生き残ることができました


 また、ペルシャ帝国の中で、モルデカイとエステルを初めとしたユダヤ人も政府内で良い立場を得ました。それは、彼らが政府に対して、平和的で協力的であり、武器をとって政権を倒そうとしないことが知られていたからでもあります。(エステル2:21-23;6:2)




Queen Esther watches as Mordecai writes to the Jews of the Persian Empire, instructing them to defend themselves (Esther 9--10). (mordecai2)
モルデカイとエステルはペルシャの王に協力的であることが知られていたのでユダヤ人を救うことができました





 このことを考えると、もしどうしても事情が許さず、北の王と南の王の領域に住む場合は、神に保護を祈り求めつつ、神に依り頼んで神の律法を守り、必要な場合は、政府に自分の立場を説明することができます。政府は、クリスチャンの立場を受け入れてくれるかもしれません。


大いなるバビロンの南の王の領域からは、遅かれ早かれどうしても出る必要があります。(啓示18:4)それは大患難の前である必要があります。しかし、神の民に対する激しい迫害が生じる前に行動するのが賢明です。けれども、どうしてもそれができない時期は、神の崇拝を第一にしつつも、政府に敬意を払いましょう。


 聖書は、政府の高官に誉れを与えるようにと勧めています。(ローマ13:7)この複雑で問題の多い現代社会で、完全に賢明な判断を下し、難しい局面にいつも賢く対処できる人がいるでしょうか。どんな政治家であっても、完璧に行える人はいないと思います。賢明に政治を行っていくのは、誰が行っても難しいことです。


 私たちは、たとえ政府が完璧にできなくても、良い政治を行おうと努力が見られる場合、その努力に対して、敬意を払い感謝するのが正当なことだと思います。


 それで、神の律法と原則に反しない場合、政府に敬意を払い協力しましょう。


〇裁判に訴える


 また聖書によると、使徒パウロは、他の人からいわれない訴えをされて宣教の自由が妨げられた時に、ローマ皇帝に上訴しました。(使徒25:11,12)つまり今で言うと、パウロは問題を最初に地方裁判に持ち込んで、反対者と論じ、決着がつかなかった時に、いわゆる最高裁まで行ったということです。




Paul before FelixPublic Domain William Hogarth (paul4)
パウロは当時ローマの皇帝や高官に問題を訴えてある程度良い結果を得ました
それは今日裁判に訴えることと同じです




 パウロの上訴がどんな結果になったかということは、聖書には記されていませんが、言い伝えによると、パウロはローマで裁判を受けた後、釈放されて一時的には自由に宣教活動を続けられたようです。それで、パウロの言い分は最初は好意的に受け入れられたようです。


 ですから、政府と同意できない点がある場合、聖書は裁判に訴えるという方法も認めています。しかし、パウロは残念ながら、最後には、ローマ政府により、殉教したと考えられています。


 それでも、パウロは裁判で争った結果、自由に宣教を続ける期間を延ばすことができました。ですから、裁判に訴えることは、平和的な方法であり、ある程度良い結果をもたらせる場合があります。