ヨブ4章・罪がない廉直な人は拭い去られることがないというのは本当ですか


 罪のない人は、苦難に遭って死ぬことがなく、邪悪な人々だけが滅びに直面するという人がいます。それは、真実でしょうか。
 

テマン人エリパズは、ヨブが災難にあったのを聞いて慰めに来ました。しかし、ヨブが苦しみのあまり自分が生まれてきたことを嘆くのを聞いて、ヨブにこう言いました。


 「だれが罪がないのに滅びうせた者があるか。また、どこに廉直な人でぬぐい去られた者があるか。」と言いました。(ヨブ4:7)ですから、エリパズは、罪がなく廉直な人は滅ぼされることがないと言いました。


 そのようにして、エリパズは、ヨブが財産や子供たちを失ったり、病気になったのは、ヨブが罪を犯しているからだということを示唆しました。


 そして、エリパズはまた、邪悪な人々は神によって皆滅ぼされることを示唆しました。


 彼はこう言いました。「有害なことをたくらむ者、また厄介なことをまく者は自らそれを刈り取ることになる。神の息によって彼らは滅び失せ、その怒りの霊によって彼らは終わる。」(ヨブ4:8,9)


 エリパズが、邪悪な人が神によって裁かれると述べたのは一部真実です。確かに、聖書は、預言者に逆らった人が命を失うという宣告を受け、その通りになった場合があることを示しています。また、神を無視し逆らう生活を送っていた人が、神のご意志で、命を落とす場合があることも聖書は述べています。(ルカ12:20。ヨブ34:24-26)


 しかし、エリパズの言ったことは全部、本当でしょうか。罪がない廉直な人は災いにあうことがないでしょうか。

  
 聖書の中には、神を愛し、神の律法を守る人が神から保護されるということが書かれています。(詩編31:23)
  

しかし、エリパズの言ったことは、必ずしも真実ではありません。物事は、ひとつのルールがすべての人に当てはまるわけではありません。聖書の中には、罪がなく廉直な人であるのに、邪悪な人によって命を奪われた人の例がたくさん出てきます。


 例えば、アダムの息子アベルもその一人です。アベルは神に信仰を持ち、兄弟カインを愛していました。(ヘブライ11:4。ヨハネ第一3:12)しかし、カインは、アベルが神に喜ばれていたので、アベルをねたみ、アベルを殺してしまいました。(創世記4:8)アベルは罪がなかったのに、命を奪われてしまいました。(ルカ11:51)





Caim and Abel (cainabel5)
アベルは愛と信仰のある人でしたがカインに殺されました―廉直な人でも命を奪われることがあります




 それから、祭司エホヤダの子ゼカリヤは、廉直なエホバの崇拝者でしたが、神の預言を伝えたので、人々に殺されてしまいました。(歴代第二24:21,22)エホアシュ王が、ゼカリヤを石打ちにするように人々に命令したので、ゼカリヤは殺されてしまいました。


さらに、一世紀のクリスチャンステファノがいます。彼のイスラエルの歴史に基づいた証言はイスラエル人の怒りを買い、彼も石打ちにあって殺されてしまいました。(使徒7:58-60)ステファノは愛のある罪のない人でしたが、命を失ってしまいました。



 このように聖書の中に罪のない廉直な人が迫害にあって死んだ例が少なからずあります。
 

また、啓示の書は、聖なる者たちや預言者たちが、大いなるバビロンによって迫害されて命を落とす場合が多いことを示唆しています。(啓示17:6;18:24)


 ですから、エリパズの言葉は正しくありません。ヨブが災いにあっていても、それはヨブが罪のない廉直な人ではないと言うことを証明しませんでした。


 ですから、私たちは誰かが災いに巻き込まれたり何かのことで死んだとしても、必ずしも、その人が邪悪であったから、当然の応報が臨んでいるのだとは言えない場合があることをわきまえておく必要があります。


 エホバの証人支部委員がはしごから落ちるという事故で死んだ時に、そのような死に方をするのは支部委員が何か悪いことをしているかのようなことを示唆した人がネットでいました。しかし、そういうことはありません。聖書はすべての人に予見できないことが起こることを述べています。(伝道の書9:11,12)罪のない廉直な人であっても、事故にあうことはあり得ます。


 聖書は、神は最終的に邪悪な人を永久に滅ぼされると述べています。しかし、神は、一時的に邪悪な人が存続し、繁栄することさえ許されます。(詩編9:5;73:12)


 それで、神が行動されることもありますが、神は私たちの生活の中で、いろいろな多くの事が起きるに任せておられます。ですから、物事は、ひとつのルールでひとくくりに判断することはできません。ですから、私たちは、誰かに災いが起きるのを聞くとき、その人が罪のある人であると言うことも、その人の持つ罪や失敗のためにそのことが起きたと断言することにも慎重でなければならないことが分かります。