独り子を苦しめてまで償いをする必要があったのですか

 贖いの犠牲について聞くと、人によっては、そのようにする必要があったのだろうかと考えます。神は、ただ単に神に仕えたいと願う人々の罪を許して、永遠の命を与えることができなかったのだろうかと考えるのかもしれません。神の独り子を苦しめてまで償いをすることが必要だったのでしょうか。


 そうすることが必要だったのです。アダムとエバは、完全な人間だったのにもかかわらず、完全な環境のもとで、罪を犯しました。そして、子孫から永遠の命の機会を奪いました。それで、アダムとエバは死刑になって当然でした。


 しかし、アダムの反逆のために、神と人類の間で問題が生じました。アダムは、子孫に罪と不完全さを伝えました。(ローマ5:12)そのために、アダムの子孫は生まれながらに罪人です。また、アダムから受け継いだ罪の傾向のゆえに、神に罪を犯さない人はひとりもいません。


 しかし、神は、アダムの子孫の罪を何の償いもなく許すことはできませんでした。もし、神がアダムの子孫の罪を、何らの償いも求めずに許すとしたら、宇宙の秩序はどうなってしまったでしょうか。宇宙全体が混乱していたでしょう。


 人類は、罪の償いが必要でした。私たちの生活でも普通に行われていることからもその必要性が分かります。例えば、私たちは殺人、窃盗などの法律違反をすると警察につかまったり、裁判にかけられたりします。その犯罪の重大性に応じて、死刑になったり、刑務所に入ったり、罰金を払ったりするかもしれません。裁判所や警察が、何の償いも要求しないで、許していたらどうなるでしょうか。





Offices & prison, Ossining, N.Y. (LOC) by The Library of Congress (prison2)
裁判所や刑務所は人々が犯罪に進まないように助ける働きをします
同じように人類を罰を与えないでただ単に罪を許すことはできませんでした




 もし、そのようにすれば、誰もが気軽に法律違反をするようになり、不法状態がまかり通るようになるでしょう。例えば、何の罰も償いも求められずに、法律違反が許されていれば、殺人や窃盗などの犯罪も多発することになるでしょう。もし、交通違反に罰がなかったならば、交通違反も増えるでしょう。


 聖書も悪行に対する罰が速やかに行われない結果をこのように述べています。「悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった。」(伝道の書8:11)



 アダムは、王であり法令授与者であり、裁き主である神の権威を侮り、それに反逆しました。(イザヤ33:22)もし、アダムやアダムの罪を受け継いだ人類が、ただ可哀想だからという理由で、何の償いもなく、罪が許されたとしたら、神の権威は敬われなくなるでしょう。また、被造物の間で、不法がはびこるでしょう。
 

 神の権威が敬われないということは、宇宙全体に混乱が生じることになるでしょう。事態は収拾できなくなるでしょう。


 神は、モーセの律法の中で罪を犯したら、死刑か、罰か、罪の許しのために動物の犠牲を捧げるかを規定していました。(民数記35:16。レビ20:10。出エジプト22:3,4)モーセの律法の中では、贖罪の日が制定されてイスラエル国民の過去一年間の罪の許しのために動物の犠牲がささげられていました。(レビ23:27。民数記29:10,11)


 完全な人間のアダムが罪を犯したので、それが許されるために人類に必要だったのは、アダムと同様な完全な人間が神に完全に従順を示し、神にその命をささげることでした。(ローマ5:19)神は、人類を全体として扱い、人類に完全な命の犠牲を求められました。しかし、人類は自分自身では、完全な人間の命の犠牲を捧げることはできませんでした。(詩編49:7,8)


 そのままでは、人類は皆アダムの子孫として罪のために皆滅びてしまう運命にありました。それで、神は人類に対する愛ゆえに人類を救うために、ご自分で人類のための償いを備えてくださいました。それで、ご自分の最愛のみ子を人間として生まれさせて、み子が人類の代表者になって人類のために、償いをすることになりました。(ヨハネ3:16)


 それで、イエスは人類が受けるはずの罰を人類の代表者として受けられました。(イザヤ53:5,12)言わば、イエスが私たち人類の身代わりとして、罰金を払ってくださったわけです。イエスは、人類が犯すあらゆる種類の罪を許す根拠となります。




The Altar of Sacrifice of the Biblical Tabernacle; illustration from the 1890 Holman Bible (sacrifice1)
昔動物の犠牲によって過去一年の罪が許されたようにキリストの犠牲は人類が犯すあらゆる罪を許す法的な根拠となります



 また、神は、贖いが首尾よく捧げられることを意図されました。神は、失敗することを望まれませんでした。それで、人類のために償いをする代表者として、ご自分が最も信頼しておられて、失敗する可能性の最も少ない最愛のみ子を選ばれました。


 み子は、自由意志を持つ行為者であっても、エホバ神はみ子に100%の信頼を寄せておられたのでしょう。それで、独り子であるなら、絶対に首尾よく贖いを備えてくれるという確信がエホバ神にあったと思います。神は、失敗しないように贖いを捧げる人の選定という点でも、人類に対する深い愛を示されました。


 それで、キリストが私たちの身代わりとなってくださったので、私たちは、キリストの贖いの取決めに信仰を働かせさえすれば、罪が許され、永遠の命が受けられることになりました。(使徒10:43)人類にとって何とありがたい愛のある取決めでしょうか。


 キリストの贖いの犠牲のおかげで、十四万四千人に、罪の許しがもたらされ天で不滅の命を受ける機会が開かれることになりました。(エフェソス1:7)また、人類の大多数には、大患難を生き残ってこの地上での永遠の命を受ける機会が開かれることになりました。(啓示7:14,17)


 私たちは、日々罪を犯してしまいますが、み子の贖いという愛ある取決めのおかげで、エホバの怒りを被ることなくエホバ神の前に立つことができます。(ヨハネ第一2:1)しかし、だからといって神の律法や原則を無視していいということにはなりません。しかし、私たちは神に対して罪を犯さないように最善の努力を払いつつ、贖いの取決めに依り頼んで、神のご意志を行っていきましょう。