サムエル第一14章・エホバの証人の統治体の兄弟たちに対する敬意をどこまで払うべきか

 聖霊で油注がれたクリスチャンも完全ではありません。エホバの証人の統治体の油注がれた者たちも、間違いがあるでしょう。それでは、私たちは油注がれたクリスチャンに対する敬意をどこまで示すべきなのでしょうか。そのことについて、サウルに起こったことから洞察することができます。


 サウルは、預言者サムエルから非とされました。エホバは二度預言者サムエルを通して、サウルの王権を取り去り、サウルより優れた人に与えることを告げられました。(サムエル第一13:13,14;15:23)それでも、サウルはすぐには王としての立場から退けられませんでした。そして、その間、ダビデはサウルを油注がれた者として敬意を払い続けました。





Samuel anointing Saul (saul4)
サウルはサムエルを通して油そそがれエホバは彼をすぐには王としての立場から退けられませんでした




エホバはダビデがサウルに対して敬意を払うことを良しとされました。ダビデが、サウルを殺す機会が二度あった時、ダビデはそうしようとしなかったことが聖書に記録されています。このことは、そのダビデの振る舞いがエホバに是認されていたことを示しています。(サムエル第一24:6,7,10;26:8-11)




David Shows Saul How He Spared His Life (1Sam. 24:2-20) (davidsaul4)
エホバはダビデがサウルが不忠実になった後からも彼に油注がれた者として敬意を払うことをよしとされました



 ダビデは、イスラエルの王になるまで、辛抱強く待たなければなりませんでした。しかし、ダビデのサウルに対する敬意は正当な部分がありました。なぜなら、その間、サウルはある程度、神のご意志を行っていたからです。


 サウルは、周囲の諸国民からイスラエルを助け出すエホバの器となりました。サムエル第一14章によると、サウルは神に不従順になった後も、神のご意志を行うことに努力を払っていました。サウル王はその生涯中、フィリスティア人や諸国民と戦って勝利を得ました。


 「サウルは、・・・周りのすべての敵、すなわちモアブ、アンモンの子ら、エドム、ツォバの王たち、フィリスティア人と戦うことになった。彼はどこへ向かっても、有罪宣告をもたらした。そして彼は・・・アマレクを打ち倒して、イスラエルを略奪者の手から救い出した。」(サムエル第一14:47,48,52)エホバ神が時間を猶予されたことは、道理にかなっていました。なぜなら、サウル王は聖書中のエホバの指示全部に不従順になっていたわけではなかったからです。



サウル王が王として選ばれた理由は、イスラエル人をフィリスティア人から救い出すためでしたから、サウルは王として選ばれていたその任務を果たしていました。(サムエル第一9:16)


 他にも、サウル王は神の律法に従うように一部努力をしていました。ある時、イスラエル人は血の律法を破って動物の血抜きをしないまま、動物の肉を食べました。その時、サウル王は、イスラエル人が神の血の律法に従うように手段を講じました。サウルがそうしたのは、サウルの王国が長続きしないと、サムエルが宣言した後のことでした。(サムエル第一13:14;14:34)


 さらに、サウルは、心霊術に関するエホバの律法に従って、霊媒イスラエルから除き去ることさえしていました。(サムエル第一28:3)モーセの律法は霊媒が死ぬべきことを規定していたので、サウルのしたことは、エホバに忠実なことでした。(レビ20:6,27)


 このように、サウルはエホバに忠実なことを一部行っていました。このことは、油注がれた者サウルに対して、敬意を払うことが妥当であることを示していました。


 しかし、サウルは、ダビデが自分の王権を奪うのではないかと考えた時に、ダビデに協力したと考えたエホバの祭司たちとその家族を惨殺しました。そのようにして、エホバの崇拝に真っ向から敵対する行動を取りました。それは流血の罪でした。(サムエル第一22:16-19)しかし、ダビデはサウルがそうした流血の罪を犯した後でさえ、サウルに敬意を払いました。


 それで、今日でも、エホバの油そそがれたクリスチャンに対する敬意をエホバ神は求めておられると思います。エホバが特定のクリスチャンを聖霊で油そそがれているというのは、大抵理由があると思います。とりわけ、エホバの崇拝に熱心であったかもしれず、エホバの律法に忠実であるかもしれません。とりわけ、神のみ言葉聖書の知識があるかもしれません。


 しかし、エホバの油そそがれたクリスチャンも、エホバ神にある点で不忠実になってしまったり、判断において失敗したり、霊の実を表す点で失敗したりします。


 それでも、油そそがれたクリスチャンがすぐに完全にエホバに不忠実になるということは、普通ないと思います。油注がれたクリスチャンも例えサウルのように失敗しても、不完全ながらも神のご意志を行い、神の律法に従う努力を払っていることでしょう。


 それで、油注がれたクリスチャンがある程度エホバに不忠実になった後でさえも、ダビデがサウルにしたように、油注がれた者に敬意を払うのは正当なことであり、またエホバに求められていることでもあるのです。


 それで、エホバの証人の油そそがれたクリスチャン、とりわけ統治体の兄弟たちも、エホバの律法に従う点で、厳密でなかったりするかもしれませんが、彼らがエホバの崇拝を行おうとしていることは事実です。


 そして、統治体の兄弟たちをサウル王になぞらえるのは間違っています。統治体の兄弟たちは、サウルがしたように、エホバの崇拝者を文字通りに殺すようなことはしていないからです。統治体の兄弟たちに、ダビデがサウルに示した以上の敬意を払うのは正当なことだと言えます。しかし、統治体の兄弟たちは、エホバの崇拝に忠実な者を組織から排斥して、比ゆ的に殺すということはしているかもしれません。


 中には、エホバの証人の統治体に落ち度があることを指摘して、エホバの証人の統治体の兄弟たちのことをひどくけなす人がいます。そうすることによって、聖書や創造者に対する信仰を損なう結果になります。しかし、それらの人々の極端な態度はエホバに是認されないと思います。


 聖書は、エホバに不忠実で、エホバの崇拝者を殺したサウルの良い点でさえ記録して、その点を認めているのです。ましてや、エホバの証人の統治体の兄弟たちのしている良い点を認めるべきです。


 しかしながら、サウルの息子ヨナタンは、もっと早く父親のサウルから離れてダビデと共に行動すべきであったと言えます。もし、ヨナタンダビデと行動を共にしていたなら、フィリスティア人との戦いで敗北して、命を失うようなことはなかったでしょう。エホバのご意志であれば、ヨナタンは、フィリスティア人に敗北することはなかったと考えられます。「戦いはエホバのもの」なのです。(サムエル第一17:47)


 ヨナタンは、ダビデがサムエルを通してエホバに油そそがれていたことを知っていました。そして、ダビデを愛しており、ダビデに協力していたので、ヨナタンがサウルの死後も生きのびなかったのは悔やまれます。


 最後に、サウルはエンドルの霊媒に相談して、心霊術に関するモーセの律法の命令に違反して完全にエホバの是認と助けを失ってしまいました。ですから、もし万が一、エホバの証人の統治体が、神の律法に真っ向から反することを行うことを観察するならば、それはエホバの証人から離れるべき時だと言えるかもしれません。


 例えば、エホバの証人の統治体が宗教的な偶像や政治的な偶像に対して、崇拝したり、そうすることを他のクリスチャンに奨励したり、エホバへの崇拝をやめるように言うならば、その時は、エホバの証人に留まっていても良くない結果になるでしょう。神の是認と保護を失って最後には、共に命を失うという結果になりかねません。


 聖書の預言の正確な解釈も大切です。しかし、それよりも重要なことは、神の律法に対してどのような立場をとっているかでしょう。


 エホバの証人の統治体がエホバの崇拝に努力している間は、敬意を払うことは、エホバに是認されることだと言えます。しかし、油注がれたクリスチャンが、とりわけ神の律法に甚だしく違反するようになれば、それは、彼らから離れるべき時です。


 それで、油注がれたクリスチャンの振る舞いが神の律法と原則に従っているかどうかを観察していきましょう。そのようにして、神と同じ見方を持つことができます。