神に関する奇跡的な知識がないことは神が愛がないことを示していますか

   私のブログのコメントで、物事を一瞬に理解する能力を与えておきさえすれば、神に関する見解の違いによる戦争も起きないし、今よりずっと平和になるはずだと言った方がいました。その人は、平和の神であるとされるエホバが人間に物事を一瞬で分かる能力を与えていないということは、神が全能でなく愛がないことを意味すると主張していました。果たしてそうでしょうか。考えてみましょう。


 ある特定の事柄についての生得的に知識を与えられているのは、動物です。聖書は、ある動物が「本能的に賢い」と言っています。(箴言30:24)動物は自動的に行動しています。しかし、動物はその代わりに学び続けることができません。


 エホバ神は、一世紀のクリスチャンに異言の能力、つまり学んだことのない外国語を話せる能力を与えました。また、一世紀には、クリスチャンに奇跡的な知識を与えられていました。(コリント第一12:10)ですから、神は、望むなら、物事に関する知識を奇跡的に与えることも可能です。しかし、聖書には、そうした奇跡は過ぎ去ると述べられています。(コリント第一13:8)
 

 ですから、現代において、物事を一瞬で理解することのできる人はいません。正しい理解と判断は、十分な量の正確な知識に基づいています。そして、ある事柄についての正しい知識は、人間の場合、生得的に与えられていません。それを人間は、時間をかけて習得する必要があります。しかし、私たちは自分たちが自動的に行動するのではなく、物事を学べる存在であることを感謝するのではないでしょうか。



 神は、明らかに最初の人間アダムにご自分がアダムを創造し、命を与えたことを口頭で教えました。しかし、神は、人間に神がエホバであるという生来の知識は、人間の頭の中に植え込まれませんでした。アダムは、神の支配権から独立する道を選びました。(創世記3:6)

 
それで、アダムの子孫は、それぞれ自分が望む者を神として崇拝しています。そのため、世界はいろいろな神を崇拝する人々のために分裂しています。



 ですから、全世界の多くの人は、さまざまな宗教を持っており、さまざまな神を崇拝しています。例えば、イスラム教徒は、アラーの神を信じています。ヒンズー教徒はビシュヌ神、シバ神その他のもろもろの神を信じています。天体の光体を崇拝する人もいます。(申命記4:19)仏教徒は、仏陀または菩薩また先祖を神だとして崇拝しています。




By Aaron Logan from;http://www.lightmatter.net/gallery/albums.php A statue of the Buddha(buddha2)
ある人々は仏教を崇拝しています



itsokstay_calm(allah2)
ある人々はイスラム教の神を崇拝しています




 また、宗教を持っていない人でも、自分を超越しているものを崇拝しています。例えば、神の代わりに仲間の人間の政治指導者を神として崇拝したり、なんらかの政治組織を神として崇拝する人もいます。(啓示13:4)


 ある人は、科学を神として崇拝します。科学が発達すれば、人類が抱えるすべての問題は解決すると考えて、生涯をかけて科学的な真理を探究する人もいます。人は、学んだ知識に基づいていろいろな神を崇拝しています。それが現在の世界の状況です。


 エホバ神は、ご自分についての生来の知識を人間に無差別に与えることはされませんでしたが、ご自分についての知識を一冊の本聖書にまとめて人間に与えられました。人は、望めば、聖書を読んでまことの神についての知識を取り入れることができます。


 
 ですから、神は、人間の脳に神がエホバであるという知識を植え付けませんでしたが、創造者がご自分であることを人間が知ることができるようにされました。


 聖書は世界に幾十億冊も頒布されているので、望む人は、聖書の神エホバについて知ることができます。とりわけ、聖書の預言は、まことの神がどなたであるかを示します。聖書の預言が成就するのを見て人々は、まことの神が聖書の神エホバであることを知ることができます。




Robert(bible81)
聖書は世界に幾十億冊も頒布されていて望む人は誠の神について自由に学べるようにされています―エホバ神はご自分を強制的に崇拝するようにされず人間の側に選択の自由を与えられました



 なぜ神はご自分に関する知識を奇跡的に自動的に与えないのでしょうか。人間は学ぶ存在です。人間は自分が崇拝したい神を自由に選ぶことができます。また、学んだ知識に基づいて自発的にエホバ神を崇拝することができます。私たちは、自分が生来動物のように神を自動的に崇拝するようになっていないこと、自由選択の余地があることを感謝するのではないでしょうか。(申命記30:19)


 私たちは自分の崇拝したい神を選ぶことができます。私たちはエホバ神を崇拝するよう強制されていないので感謝するのではないでしょうか。私たちは、神について学び、理性に基づいてエホバ神を崇拝することができます。このことは、エホバ神が人間の自由意志を尊重される愛の神であることを示しています。


 また、神は、人間が永遠に神について学び続けることができるようにされました。(ヨハネ17:3)人間は、永遠に動き続ける機械を作ることはできません。しかし、人間が神について永遠に学び続けることができるということは、神が愛ある全能の神であることを示しています。
 

 聖書の預言が成就していくと共に、誰が真の神であるかが示されることになります。そのようにして、この終わりの時に、非常に大勢の人が、真の神を見分けて崇拝するように助けられるでしょう。


 ですから、聖書について自発的に知識を取り入れ真の神を見分けて永遠に学び続けることができるようにされていることは、聖書の神エホバが理性のある存在として人間を尊重しておられることを示しています。