地上の楽園での永遠の命は望ましいもの

「あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,[それを]喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない。」(イザヤ65:18,19)

 聖書の地上の楽園での永遠の命の希望について聞いた時に、永遠に生きたいという願いを持てない人がいます。

 どうしてある人々は地上での永遠の命についてこのように反応するのでしょうか。それは、ひとつには、今の生活が喜びの少ない苦痛や不安の伴う生活だからではないでしょうか。人が現在の生活に不安や苦しみや圧迫を感じている時、そのような生活が永遠に続くと想像します。当然永遠に生きることに喜びや楽しみを見出せないと感じるのはもっともなことです。

 聖書は多くの神の僕が、神に信仰を持っていたにもかかわらず、死にたいと願ったことを示しています。

 たとえば、ヨブは財産と十人の子供たちを失い、自分の罪のゆえに神からの災いを経験していると考えた時に、生まれてこなかった方が良かった、また、早く死にたいと考えました。

 モーセイスラエル人を指導することを重荷に感じた時に、命をとってくださいと神に願いました。

 エリヤもバアル崇拝と闘っているのは自分だけだと感じた時に、やはり死んでしまいたいと感じました。

 神の僕が生きていることに嫌悪を感じることがあるのですから、信仰を持たない人々が生活の中で苦しみや圧迫を経験する時、長く生きることに対して嫌悪感を抱くのは、当然だと言えるかもしれません。

 けれども、聖書が差し伸べている将来の希望は、今のような苦しみや悲しみのある喜びの無い生活を永遠に続けるということではありません。

 例えば、エホバが創造される新しい天と新しい地に関して、冒頭の聖句のように預言されています。(イザヤ65:18,19)新しい天のもとでの生活の中では、悲しみや叫びはなくなります。喜びや歓喜がその特徴になります。

 啓示の書にも、新しい天と新しい地に関する約束に関連して、こうあります。

 「そして神みずから彼らと共におられるであろう。 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである。」(啓示21:3,4)

 新しい天つまり神の王国政府のもとでの生活の中では、嘆きや叫びや苦痛がなくなります。

 新しい体制では、古い体制での生活の苦しみや悲しみを思い出すことさえなくなります。もし、地上の楽園での生活が悲しみや苦しみのない喜びあるものになるのであれば、死にたいと思わないのではないでしょうか。つまりいつまでも生き続けたいと願うのではないでしょうか。

 人間の創造者は人間について人間以上にご存知です。それで、人間に幸福で喜びある生活を送らせることがおできになります。上述のヨブやモーセやエリヤはエホバの援助を得て死んでしまいたいという気持ちを克服することができました。

 人間にとっては不可能なことも創造者にとってはすべてのことが可能です。(マタイ19:26)地上の楽園での生活が退屈でつまらないものではなく、喜びあるものとなるように人間の創造者は取り計らうことができます。