[進化論と創造説]自然界の中で進化は起きていますか

「神は言われた,『地は生きた魂をその種類にしたがい,家畜と動く生き物と地の野獣をその種類にしたがって出すように。』するとそのようになった。」(創世記1:24)
 
 聖書は神が地上の生物を創造されたこと、そして、生物が種類に従って繁殖することを述べています。進化論者は魚が両生類に、両生類が爬虫類に、爬虫類が哺乳類に長い時間をかけて種類が移り変わってきたと主張します。どちらが、自然界に見られる事実と調和するでしょうか。

 わたしたちが見ている自然界に見られる法則はこうです。生命はそれ以前に存在していた生命からのみ来る、そして、親生物とその子孫とは同じ種類であるという法則です。多様な変種は存在しますが、ある生物が別種の生物に変わるほどの変化は決して起きません。

 例えば、犬には、コリー、チワワ、ダックスフント、シェパード、ブルドッグ、ボクサー、プードルなど、いろんな変種が存在します。その色や大きさや形は様々です。それでも、犬は犬同士で掛け合わせる事ができます。そして犬という種類の中で繁殖していくことができます。しかし、それぞれの犬の形や色や大きさの違いは進化が起きていることを示しているのではありません。それは、犬という種類の中でのもともとあった多様性を示しています。それで、何世代たっても、犬は犬のままです。

 人類の中にも、黄色人種、白色人種、黒色人種、また、ピグミーからタサダイ族まで、その色や大きさや特徴などは様々です。そして、人間の種類の中では人種や民族が違っても結婚して子供を産み出すことができます。しかし、何世代たっても、人間は人間のままです。聖書が言っているとおりです。

 サイエンティフィック・アメリカン誌もそのことをこう述べました。「生物はその形態においてすこぶる多様であるが,どれを取ってみても,一つの系統の中では,その形態は驚くほど一定している。何世代たってもブタはブタのままであり,カシの木はカシの木のままである」。(「ウイルスの形状に対する遺伝子の支配」1966年12月号)

 品種改良の実験もこの点を確証しています。科学者たちは,種々の動物や植物を掛け合わせによって無限に変化させてゆくことを試みてきました。それにより,新しい形態の生物を作り出すことができるのではないか,と期待されました。どんな結果になったでしょうか。

 オン・コール誌はこう伝えています。「育種家たちは普通,何世代かすると最大の限界に達し,それ以上の改良は不可能であることに気づいている。そして,新しい種が形成された例はない……したがって,育種の過程は,進化論を裏付けるというより,それに反論しているように思われる」。(オン・コール1972年7月3日号)

 ですから、聖書が述べているように、生物はただ「その種類にしたがって」繁殖します。形や色や大きさの変化はあっても、それによって新しい種類が産み出されることは決してありません。

 これはどうしてでしょうか。これは,それぞれの植物や動物がその種類の標準から大きくはずれることを遺伝の暗号が阻むからです。

 一つの種類内での変種ということは,進化に関するダーウィンのそもそもの考えに影響を与えた事柄の説明となります。ガラパゴス諸島に来た時,ダーウィンはフィンチという鳥を観察しました。それらは南アメリカ大陸にいるその親種と同じ型の鳥であり,明らかに南アメリカから移り住んだものでした。しかし,くちばしの形などがそれぞれの島に生息するフィンチによって少しずつ相違がありました。ダーウィンはそれを,進行過程にある進化と解釈しました。

 しかし,実際のところそれは,生物の遺伝子的な組み立てによって許容された,個々の種類内での変種の一例にすぎませんでした。フィンチは依然としてフィンチのままでした。それらは何かほかの種類のものに変わりつつあったのではありませんでした。

 こうして,創世記が述べている事柄は科学上の事実と全面的に調和しています。種をまくと,それはただ「その種類にしたがって」産出しますから,私たちはその法則の確実性に信頼を置いて畑に植え付けをすることができます。聖書の述べるとおり、「いちじくの木がオリーブを,ぶどうの木がいちじくを生じさせることはできないではありませんか。」(ヤコブ3:12)

 私たちはいちじくの種を植えたら、いちじくを、ぶどうの種を植えたら、ぶどうの実を、収穫できることを信頼できます。ネコの子はいつでもネコです。人間から生まれてくる子はいつでも人間です。色,大きさ,形などには多少の変異はありますが,それは常にそれぞれの種類の限界内にとどまっています。

 自然界の中で進化は起きていません。聖書の創世記の述べる通りになっています。