死によって終わりとする聖書の記述(新共同訳)

「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩篇90:10新共同訳) 

 聖書は肉体が死んだ後まで霊魂のようなものが存続することを述べてはいません。詩篇90編はモーセが書きましたが、モーセはその詩篇で人の普通の寿命で人の存在が基本的に終わってしまうことを述べています。

 10節によると人の人生が通常七十年、元気であると八十年程であって、それで飛び去ってしまうとモーセは書きました。それで、肉体の死の後があるとは述べていません。
 
 同じく、詩篇90編3節では、「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と述べられており、人が死ぬと塵に戻ることを述べています。

 また、詩篇90編6節では、「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます。」とモーセは述べており、人の生涯をはかなくて一日で枯れてしまう花に例えています。

 詩篇90編9節では、「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。」と述べ、人の生涯をため息のようにはかないものに例えています。人が死んだ後、意識が永遠に存続することは述べていません。

 聖書はエホバは当初アダムが肉体の体でいつまでも生きることを願っておられたことを示しています。もし、アダムがエホバの課した禁令に背かなければアダムと彼の子孫はいつまでも肉体の体で生き続けることができました。(創世記1:16,17)

 ところが、アダムは神に背いたので、人間は生まれてきて七十年か八十年の生涯で終わるというのが基本的に人生の現実になりました。(ローマ5:12)基本的に年を取って死んだ後、霊魂のようなものが存続して意識が続くというようなことは聖書は述べていません。モーセが述べている通りです。
 
 しかし、エホバは憐れみ深くも、人類のためにイエスの贖いを備え、この地上に肉体の体で復活するという見込みを差し伸べてくださっています。(使徒24:15)また、聖書は人類の一部の人が天に霊者として復活するという希望も差し伸べています。それは、エホバ神が死者を再創造されるという奇跡によって行なわれます。

 しかし、地上への復活も、天への復活も、もともとアダムが創造された時に人間に差し伸べられていた見込みではありませんでした。
 
 また、聖書は邪悪な人類に対する裁きを生き残った神の僕が地上で永遠に生き続けるという見込みも差し伸べています。(黙示録7:14,17。ヨハネ17:3)