現代の奇跡やしるしは神の民の証拠ですか
「『わたしがあなたと共にいるからである。そして,わたしがあなたを遣わしたという,あなたのためのしるしはこれである。』・・・『それで,彼らがあなたを信じず,最初のしるしの声に聴かないとしても,後のしるしの声には必ず聴くことになろう。』」(出エジプト3:12;4:8)
モーセはエホバ神から、ファラオのもとに遣わされて、イスラエル人をエジプトから導き出すという任務を与えられた時に、みっつの奇跡を行なう力をエホバから与えられました。
ひとつは杖が蛇になるという奇跡です。もうひとつは、モーセが手を衣のひだに差し入れたり、引き出すことによって、その手はらい病になったり、いやされたりするという奇跡でした。もうひとつの奇跡は、ナイル川の水を取って,陸地に注ぎ出すと、それは血となるという奇跡でした。そのようにして、その当時は、イスラエル人はエホバがモーセを遣わされたことを認めることができました。
けれども、神は、今日真の神の民を見分けるしるしとして、奇跡やしるしを用いられるでしょうか。
確かに、一世紀にイエスはたくさんのしるしを行なって神の子であることを示しました。「たくさんの人が彼(イエス)の行なうしるしを見て,その名に信仰を持った」と記されています。(ヨハネ2:23)さらに、神はイエスとイエスの弟子たちに奇跡やしるしを行なう力を与えました。「神は,数々のしるし,また異兆やさまざまの強力な業をもって,・・・その証しに加わられた」と述べられています。(へブライ2:4)
けれども、奇跡やしるしはイエスの真の弟子たちだけが行なえるのではありません。イエスは終わりの時に、「偽キリストや偽預言者が起こり,・・・大きなしるしや不思議を行なう」と予告されました。(マタイ24:24)
また、パウロは「不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴(っています)」と述べました。(テサロニケ第二2:9)
それで、偽キリストや偽預言者、神から非とされている不法の人もサタンの働きによってしるしや奇跡を行なえると述べられています。ですから、奇跡やしるしを行なえること自体が神がその預言者とともにおられることを示すわけではありません。
奇跡については、パウロはそれがやがて過ぎ去って行くと予告しました。コリント第一3章8節で、パウロは「愛は決して絶えません。それに対し,預言の賜物があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます」と予告しました。
ですから、奇跡やしるしは奇跡を行なえた一世紀の使徒たちや他のイエスの弟子たちが死んでしまうと、過ぎ去ってしまうことになっていました。それで、奇跡やしるしは今日、真のイエスの弟子たちを見分ける絶対的な証拠とはなりません。
昔は奇跡やしるしが神の僕である証拠として用いられました。しかし、今日では、奇跡やしるしや不思議は、反キリストや偽預言者も行うことができるのですから、それらは真の神の民である証拠とはなりません。
イエスはイエスの弟子たちが互いに愛し合う時、それはイエスの真の弟子であるという証拠であると言われました。(ヨハネ13:35)また、真の神の民であるということは、聖書と調和している教えを奉じているかどうかを聖書から確認することによって見分けることができるでしょう。