詩篇49編・神を信仰すべき理由

「自分の資産に依り頼んでいる者たち,自分の豊かな富を誇りとしている者たちは,だれひとりとして,兄弟をさえ決して請け戻すことはできない。また,彼のための贖いを神にささげることも[できない]。・・・彼をなお永久に生き続けさせ,坑を見ることのないようにさせようとしても。」


 「神を信仰して何の助けになるのだろうか。信仰をする時間があったら、その時間をお金もうけに費やした方が実際的に益があるのではないか。」信仰を持たずに生活している人はこのように考えるかもしれません。


 では、なぜ神を信仰するために努力を払うべきでしょうか。
 

 信仰のない人は人生を少しでも豊かに楽しいものにしようとして、あくせく働くことに努力を傾注するかもしれません。そうすると物質的なお金や資産を自分が利用できる以上に蓄えることができるかもしれません。


 もちろん、働くことは間違ったことではありません。聖書は勤勉を勧めています。(箴言10:4)けれども、もし神への信仰した度外視した物質中心の生活を送るならどんなことを経験しますか。


 その人の家族や友人が病気になったり、事故になったりして亡くなることがあるかもしれません。しかし、詩篇49編によると亡くなった愛する人を死から救い出すことは、どんなにお金を積み上げても人間の力ではできないことに信仰を持たない人は気づくことになります。


 また、自分は最後にどうなりますか。同じ詩篇49編14節は、神に信仰を持たない人にこう述べています。「彼らは羊のように,まさしくシェオルに定められた。死が彼らを牧するであろう。」シェオルというのは、一般的な意味で墓、つまり死者のいる場所を意味しています。ですから、神への信仰を持たない人はやがて自分も年を取り死んで墓に行き、資産を他の人に残さざるを得なくなります。


 神へ信仰を持たない人が突然死んでその富を他の人に残さざるを得なくなることがあるということは、イエスもそのたとえ話の中で述べておられます。(ルカ12:20)死んで、自分が一生懸命蓄えた資産を他の人に残して自分が楽しめなくなるのであれば、その人の苦労に何の益があったと言えるでしょうか。


 これは、現時点での人生の冷厳な事実であることを聖書は述べています。つまり、人は永遠の命を自分も他の人も楽しめないのであれば、結局空しいと言えるのではないでしょうか。


 一方、神に信仰を持つ人はどうなりますか。詩篇49編15節はこのように述べています。「しかし,神ご自身がわたしの魂をシェオルの手から請け戻してくださる。わたしを受け入れてくださるからだ。」


 ダビデなどの例に示されているように、信仰を持つ人は、その寿命の間にも、早死になどの危険から、エホバ神の助けによって救い出されることもあるかもしれません。

 
 また、その人は、将来シェオルから救い出され、天あるいは地上に復活させてくださるという希望が神より差し述べられています。そして天あるいは地上へ復活する人に神は永遠の命の見込みを差し伸べられることを聖書は示しています。人間に永遠の命を差し伸べることができるのは真の神だけです。


 しかしながら、聖書によると神は信仰を持つ義者と生前信仰を持たなかった不義者にも復活の希望を差し伸べておられます。(使徒24:15)エホバはなんと寛大で愛のある方でしょう。


 しかし、イエスが最終的に人類の裁きのために到来される時、裁かれた人には復活はありません。(マタイ25:46)誰を復活させるかを決めるのは人間の命の源であるエホバ神です。このことを考えるとエホバ神に是認されるように信仰をもって生きるのが本当に賢明であると言えるのではないでしょうか。