続・イエスは神または神の子ですか(新共同訳)

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)


エスは神とは別の人格的存在である神の子なのでしょうか。それではなぜイエスはフィリポに対して「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われたのでしょうか。(ヨハネ14:9)このイエスの言葉はイエスが全能の神であることを意味するでしょうか。


 ある息子について「あの子は父親に生き写しだ」と言われる事があるでしょう。それは、その息子が父親の外見や性格や才能の点で、よく似ている時にそのように言うでしょう。それで、イエスを見た者は、その父親であるエホバ神を見たようなものだという意味でイエスは言われたのでしょう。


エスは幾十億年も前に、すべてのものが造られる前に創造された方です。箴言8章に出て来る、神がその道の初め、山々の基も据えられていなかった時に、造られた「巧みな者」は、物質宇宙が創造される前に創造された独り子を意味していたでしょう。神が直接創造されたのは、後にイエスと呼ばれたみ子お一人でした。他の被造物は、すべて「巧みな者」であるみ子を通して造られました。(箴言8:22〜25,30。ヨハネ3:16。コロサイ1:15)


独り子は、生み出されてから長大な期間神と共に行動してこられました。そのため、まさしく「あの子は父親に生き写しだ」と言えるくらい性格の点で似た方でした。しかし、そのイエスの言葉は、イエスがエホバ神ご自身であることを意味するものではありません。


 それでは、トマスがイエスに「私の主、私の神よ」と言ったのはどうしてでしょうか。(ヨハネ20:28) ここで、トマスは復活したイエスを見て、感極まってイエスが自分にとって神のような方であると述べたのでしょう。トマスの言葉はイエスが全能の神エホバそのものであるという意味ではないでしょう。またトマスは、イエスを崇拝しようという意図はなかったのでしょう。それで、イエスは、「私の神よ」と言われても否定されなかっのでしょう。


 そして、使徒ヨハネは自分の福音書の最後の方で、トマスのそうした言葉の3節の後に、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであ(る)」と述べています。(ヨハネ20:31)ヨハネはこのことを自分の書いた福音書のほとんど最後の方で述べています。


 ヨハネは自分の記録を結ぶに当たって結論を述べたいと思いました。ヨハネがイエスは神であると信じていたなら、その時こそそのことを述べる絶好の機会だったのではないでしょうか。でも、ヨハネはそう述べませんでした。


 つまり、ヨハネは、イエスの言葉やトマスの言葉を含めて自分の記録はイエスが神の子であることを人々が信じるために記されたと結びに近い部分で述べました。


 こうして調べてみると、イエスは神ご自身ではなく、神によって最初に直接創造された神の子であることが分かります。


 このブログは新共同訳の下記の版からの引用となっています。共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation 日本聖書協会 Japan Bible Society 1987,1988。