マタイ10章・地獄とは何を意味していますか(新共同訳)

「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:47,48)


ある人は、地獄の概念は旧約聖書に見出すことはできないが、イエスは地獄について確かに言及されたと言います。たとえば、新共同訳では、マタイ9章48節の中でイエスは確かに地獄について語っておられます。イエスはこの聖句で邪悪な人を永遠に苦しめる地獄を念頭に置いておられたのでしょうか。またイエスはここで何を言おうとされたのでしょうか。


エスが「地獄」と言われた語のギリシャ語は「ゲエンナ」です。この語はヘブライ語ゲー ヒンノームのギリシャ語形で、ヒンノムの谷という意味があります。ヒンノムの谷とは、エルサレムの南および南西に横たわる谷で城壁の外にありました。多くの翻訳者はこの語を勝手に「地獄」という言葉に訳していますが、実際は「ヒンノムの谷」と訳すのが正確でしょう。それで、現代の幾つもの翻訳では、「ゲエンナ」もしくは「ゲヘナ」という言葉でギリシャ語をそのまま音訳しています。例えば、新改訳はゲヘナと音訳しています。(マルコ9:47)


アハズやマナセなど、ユダの不信仰な王の時代に、ヒンノムの谷では、偶像崇拝的な宗教儀式のために子供のいけにえという恐るべき事柄が行なわれました。(歴代第二 28:1,3; 33:1,6)しかし、後に,善い王ヨシアは、その谷をそうした慣行のために使用できないようにしました。(列王第二 23:10)それで、ヒンノムの谷が、子供のいけにえを捧げる場所として用いられることは、神が望まれることではありませんでした。


また、エホバはエレミヤ7章31節の中で、息子や娘を火で焼いて偽りの神に捧げる犠牲について、「命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。」と語っておられます。ですから、エホバは意識を持つ人に決して永遠の責め苦を与える地獄のような場所を望まれる方ではありません。


ユダヤ教のラビの伝承によると、この後ヒンノムの谷はごみの処理場となりました。イエスは、ゲヘナについて、「蛆が尽きることも、火が消えることもない。」と語りました。(マルコ 9:48)イエスの言葉は明らかに、そのごみ捨て場で火が絶えず燃えていたことを暗示しています。火の勢いを強めるため、そこにはおそらくいおうが加えられていたでしょう。火の届かない所では、うじが、火で焼かれなかったものを食べ尽くしていたと思われます。エレミヤ31章40節の「死体と灰の谷」とはヒンノムの谷のことでした。それで、墓に葬るに値しないと考えられた、処刑された犯罪者の死体もまたそこに投げ込まれました。


また、聖書の中でヒンノムの谷は、大量の死体を処分する場所として言及されています。例えば、エレミヤ7章32節には、ベン・ヒノムの谷(ヒンノムの谷)が「殺戮の谷」と呼ばれ、ベン・ヒノムの谷の一部であったトフェトに「余地を残さぬまで人を葬る」ことが述べられています。(列王第二23:10)


それで、ヒンノムの谷は生きた犠牲者を責め苦に遭わせる場所ではなく、神に裁かれた大量の死体を単に葬るもしくは処分する場所でした。そういうわけで、マタイ 5章29,30節でイエスは、「全身」が地獄(ゲヘナ、ヒンノムの谷)に投げ込まれることについて話されました。


エスはまた、ゲヘナのことを、「蛆が尽きることも、火が消えることもない」場所として描写した際,イザヤ 66章24節にそれとなく言及しておられたようです。(マル 9:48)この場合の象徴的な描写が、責め苦ではなく、むしろ完全な滅びを表わしていることは,イザヤの聖句が,生きている人ではなく,エホバに「背いた者らの死体」のことを論じているという事実から明らかです。神の不利な裁きによって、エホバに背いた者らは、誉れを与えられず、徹底的で完全な滅びを被るという意味になります。


それで、新共同訳で、地獄と記述されている言葉は、ギリシャ語のゲヘナでヒンノムの谷を意味します。そこは、廃棄物や死体の処理場でした。それで、イエスは、その場所を誉れのない仕方で葬られること、つまり復活のない完全な滅びを被ることの象徴として用いられました。イエスは意識ある人に責め苦を与える場所として、新共同訳の「地獄」という語を用いられたのではありません。