マタイ24章・大患難はなぜイエスの最終的な裁きでないか

「その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。」(マタイ24:21,22) 


 イエスは、世の初めから起きたことがなく、二度と起きないような大患難があることを予告されました。(マタイ24:21)この大患難は、イエスによる裁きを含んでいるとエホバの証人は解釈しています。この大患難は、第三次世界大戦を意味しており、イエスによる邪悪な人々に対する裁きは意味していないようです。なぜそう言えますか。


 エホバの証人の洞察の本から、患難と訳されているギリシャ語についての説明を引用します。


「普通,『患難』と訳されているギリシャ語のトリプシスという言葉は,基本的には種々の状況の圧力から生じる苦難,苦悩,もしくは苦しみを意味しています。この語は,出産(ヨハ 16:21),迫害(マタ 24:9; 使徒 11:19; 20:23; コリ二 1:8; ヘブ 10:33; 啓 1:9),投獄(啓 2:10),孤児ややもめによく見られる貧困その他の逆境(ヤコ 1:27),飢きん(使徒 7:11),悪行に対する処罰(ロマ 2:9; 啓 2:22)などと結び付けて考えられている苦悩を指して使われています。」


 ですから、患難と訳されているギリシャ語は普通、さまざまな苦難を意味しています。それは、戦争という苦難も意味しえます。けれども、イエスによる邪悪な人々の裁きは、苦難というより、神の僕に喜びをもたらすものではないでしょうか。


 テサロニケ第二1章6〜9節には、イエスの最終的な裁きについて書かれています。7節には、その時、神のしもべに関しては、「安らぎをもって報いる」と述べられています。邪悪な者に対するイエスの裁きは、神のしもべにとって「安らぎ」であり、苦難であるはずがありません。


 また、イエスはマタイ24章22節でその日が短くされないとすれば、肉なる者はだれも救われないと言われました。その日がイエスによる裁きの時だとすると、その日の長短にかかわらず、神の僕が生き残るはずです。その日が長くなると神の僕が生き残らないと述べているのはおかしなことです。ですから、大患難は世の一般の人にも神の僕にも等しく苦難となる時を意味しているでしょう。


 また、イエスはマタイ24章29節の中で、「それらの日の患難のすぐ後に」と言われて、大患難の後に苦難が臨むことを予告しておられます。明らかにこの事物の体制がまだ存続しています。
そして、マタイ24章30節で人の子が天の雲に乗って来ることを初めて述べています。この時、イエスは、ご自分による諸国民の裁きの時に言及されたに違いありません。


 ですから、マタイ24章21節でイエスが予告された大患難とは、人類が経験してきた苦難の中でも、最大規模の苦難、第三次世界大戦を意味しているでしょう。神のしもべにとって安らぎまた救いとなる邪悪な人々に対するイエスの裁きを意味してはいないでしょう。