伝道の書3章・人間だけが永遠の概念を持っている

「[神]はすべてのものをその時にかなって美しく造られた。定めのない時をさえ彼らの心に置き,[まことの]神の行なわれた業を,人間が始めから終わりまで決して見いだすことができないようにされた。」(伝道の書3:11)


 聖書は神が人間の心に定めのない時を置かれたと述べています。無限の過去もしくは無限の将来つまり永遠という概念は人間に特有のものであることを,聖書は述べています。これは、本当でしょうか。人間は他の動物とはっきりした対照をなしていますか。将来について真剣に考え、将来の事を配慮し、将来のために働くのは人間だけですか。


 では、動物は将来に対する計画を立てることができないのでしょうか。ハムスターなどある種のネズミ、ある種のアリ、リス、その他の動物も、食物を保存したり隠したりしておいて後から使うのではありませんか。これは,冬になって物に困らないようにと,将来に備えて物事を計画することではありませんか。


 「動物は全く異なっている」という本の中で、ハンス・バウアーは、「そうではない」として、それを裏付ける次の事実を挙げています。「それらの動物は、自分のしている事、またなぜそうしているかを知らない。彼らはただ本能によって物事をするのである。その証拠として、ごく早い時期に親から離されてかごの中で飼われた動物でさえ、秋になると、“物を集め”始めた。それらの動物は冬を経験したことがなく、その後数か月食物が与えられなくなるというわけでもない。それなのに、彼らはただ“ためる”ために“物をためる”のである。」


 人間は過去を振り返り、将来に対して計画を立てることができます。自分の家に静かに座って、失意、失敗、成功、喜びなど、自分の幼いころの事を思い返すことができます。また、新しい家を建てること、家具を買うこと、子供に受けさせる教育のことなど、将来の活動についてあれこれと計画できます。しかし、例えば犬は、自分の子犬時代のこと、そのころ一緒に遊んだ子供たちのこと、十分に成長して連れ合いを持つことなどについて思い巡らすことができますか。


 前述の本の中で、ハンス・バウアーは、研究の結果についてこう述べています。「犬は,以前の出来事を思い浮かべるのに,現実の感覚的印象を常に必要とする。例えば,犬をある時知らない町に連れて行っていろいろな経験をさせる。家に戻って来ると,その時受けた印象はもう忘れているであろう。しかし,その同じ場所に行くとそれを思い出すのである。人間の記憶の内容が日常の必要と結び付いているのではなく、意識の流れ全体の中に根を下ろしているという点、これが、動物の心理学的機構と比べた場合の人間の利点また特性の一面である。」


 人間と動物との相違を要約して、同著者はこう述べます。「それゆえ、動物の世界は、まさに文字どおりの意味でただその瞬間の世界である。最も魅惑的な事物に注意を払っていても、その時点で当面さらに注意を引く物があると容易に最初のものから離れ、その後もうそれに戻らないからである」。
この本が述べるとおり、私たち人間は当面の日常生活と全く関係のないことを思い出したり、考えたりすることがあることを良く知っています。一方、ここに示されるとおり、動物は、人間と違って、過去の出来事を頭の中で思いのままに再現するということができません。


 したがって,動物には、永遠の概念、過去を振り返ったり、将来に対して計画を立てたりする能力が与えられていません。ただ人間だけが,「定めのない時」という概念,つまり、過去を熟思し、将来を展望してその計画を立てる能力を備えています。それで、人間は永遠の将来について考えることができるため、人が死ぬことは、人間とって大きな悲しみとなります。一方動物はたとえ永遠に生きることができたとしても、その価値を評価できないでしょう。


 もし、人間に対する神のご意志が、ただ百歳前後の寿命で終わってしまうということであったならば、人間に永遠の概念を与えるのは、愛のない残酷なことではないでしょうか。聖書は愛ある人間の創造者は、人間だけに永遠の概念を与えたのは、もともと人間がいつまでも生き続けるように造られたからであるということを示しています。また、人間に与えた能力に調和して、動物ではなく人間が将来再び地上の楽園で永遠の命を楽しめるように取り計らってくださることを示しています。(ヨハネ3:16)