申命記18章・続真の預言者と偽預言者の見分け方

話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し,あるいは他の神々の名において話す預言者,その預言者は死ななければならない。そして,あなたが心の中で,『エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか』と言う場合であるが,もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない。」(申命記18:20〜22)


 どのように真の預言者と偽預言者を見分けることができるのでしょうか。聖書はまず、エホバ以外の他の神々の名において話す預言者は偽預言者であると述べています。
さらに、預言者がエホバ神の名によって話す場合でも、聖書は預言者が話すようにとエホバが命じたのではない言葉をあえてエホバの名において話すことがあると述べています。その預言者も偽預言者となります。


 昔、霊感を受けた預言者の言葉と相反する預言をした預言者がいましたが、それらの預言者はエホバの名において預言をしました。預言者ハナニヤは、エホバの名においてエレミヤの言葉と調和しない預言をしました。(エレミヤ28:1〜4,11)エレミヤにエホバの言葉が臨み、ハナニヤは民を偽りに頼らせたので、その年に必ず死ぬと予告しました。(エレミヤ28:15,16)そして、ハナニヤはその年に死んでしまいました。彼は偽預言者でした。


 しかし、今日では、イザヤやエレミヤのような昔のエホバの預言者たちのように奇跡的に預言の言葉が与えられるということはありません。コリント第一13章8節に「予言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。」と述べられていました。それで、聖書はエホバを源とする奇跡や異兆が過ぎ去ってしまうことを予告していました。それで、今日では、エホバの名によって与えられる預言というのは、おのおのが、これが聖書が述べていることだとみなすことを、聖書の預言として語っているわけです。


 もし、預言を述べる際に、エホバの名において語っても、実際は聖書以外のものに頼って預言を述べるならば、それもやはり偽預言者ということになるでしょう。たとえば、聖書を用いていても、実際は、占いつまり心霊術に頼っているなら、その預言者も偽預言者ということになります。


 しかし、多くのいわゆる預言者は、偽預言者というより、聖書の預言の解釈を間違うことがあるわけです。聖書の解釈者は、多くの場合、自分から故意にエホバが話したのでない言葉を話そうとは、思わないでしょう。自分でこれは、聖書の根拠があると間違って考えるわけです。聖書の解釈には、人間の判断が関係します。そして、人間の判断というものは間違う可能性があります。


 今日、聖書の解釈を完全に正しくすることのできる奇跡は存在しません。ですから、いわゆる現代の預言者の役割を果たす聖書の解釈者は、その解釈ができるだけ、聖書の正確な知識と調和したものとなるように最善の努力を払うしか手段がないと言えます。つまり、できるだけ多くの聖句と調和した解釈を述べるべきでしょう。昔偽預言者は命を失ったことを考えると、聖書に基づかない預言に対してエホバが持っておられる厳しい見方が分かります。それで、現代の聖書の解釈者は、勤勉に聖書を調べ続けることが求められます。


 このことは、聖書の解釈者が、慎み深くなければならないことを示しているでしょう。証拠が少ないと感じる場合はそのことを言うべきでしょう。また、分からない場合は、やはり正直に分からないことを認めるべきでしょう。また、聖書の聖句を研究して理解が深まった場合は、聖書と調和しない古い解釈は捨てていくことが求められるでしょう。


 聖書の言葉に極力調和した預言がエホバの真の預言と言えるでしょう。聖書の預言の解釈を聞く人は、それが聖書の言葉と調和しているかどうかを確かめてみるべきでしょう。そして、エホバはご自分の言葉に調和した預言を成就させられるでしょう。