人は塵ではかないとする聖書の記述(新共同訳)

詩篇103編・人は塵ではかないとする聖書の記述(新共同訳)
「主は・・・わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる。」(詩篇103:14〜16新共同訳) 


 多くの教会員は、人間は死ぬと天に行くと信じています。死ぬと霊魂が残って天に召されると考えているかもしれません。それは、聖書の教えでしょうか。


 詩篇103編の記述によると、詩篇作者は神が人を塵にすぎないことを御心に留めておられると述べています。もし、神が人間が霊魂を持っている永遠不滅の存在だったら、人間を野の花や草のようにはかないものに例えることはなかったのではないでしょうか。それで、聖書の記述は人間が、不滅の霊魂を持ち合わせていないはかない存在であることを示しています。


 確かに、創世記2章の記録によると、最初の人間アダムは土の塵で形づくられました。(創世記2:7)その時、その鼻に命の息を吹き入れられました。アダムの鼻に吹き入れられた命の息とは、何か霊魂のようなものではありません。神が人間に生命力を伴う息を吹き込み生命をお与えになったことを描写しています。


 ところが、アダムは神の禁令に背きました。その結果、アダムは神に次のように告げられました。「お前は顔に汗してパンを得る。土に帰るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)3


 アダムは神に背いて罰を受けました。それは、創造される前の状態に戻るということでした。アダムは創造される前は命のない土の塵に過ぎませんでした。アダムは罪を犯して命のない土の塵に戻ることになりました。


 アダムはその時、肉体は土の塵に戻るけれども、何か意識ある霊魂がいつまでも残るとは言われませんでした。もし、そうであったら神はアダムにそう告げたはずです。また、もし死んでも不滅の霊魂が残るのであれば、それはアダムにとって罰にはならなかったことでしょう。アダムが受けた罰は、不滅の魂が残ることではなく、創造以前の状態に戻るということでした。アダムは創造される前は、無意識で無存在でしたから、罰として無意識で無存在の状態に戻りました。


 そして、アダムの子孫もアダムから罪と死を受け継ぎました。(ローマ5:12)それで、アダムの子孫である人間は生まれて来ても、普通七十年か八十年の短い生涯にすぎません。(詩篇90:10)聖書はその人生をはかない草や野の花に例えています。
人は死ぬ時、息絶えて意識は終わり、元の塵に帰るということは、詩篇104編29節も述べています。それで、人は死ぬとそのまま過ぎ去ってしまい、そのうちその人が存在したことを知っている人もいなくなっていきます。


 しかしながら、神はイエスの贖いによって、人間に永遠の命を差し伸べて下さっています。(ヨハネ3:16)確かに、聖書は一部のクリスチャンに天への復活という見込みを差し伸べています。しかし、大半の人は天ではなく、この地上で肉体の人間として永遠の命を享受する見込みがあります。(詩篇37:29)またある人々は地上への復活によって肉体の人間として永遠の命を享受します。(使徒24:15)人間が草や野の花のようにはかないことを考えると、これは大変喜ばしい見込みではないでしょうか。


 今回新共同訳を使いました。新共同訳は、下記の版からの引用となっています。共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation 日本聖書協会 Japan Bible Society 1987,1988。