マラキ1章・新世界訳聖書の神のみ名の表示は正当ですか

「日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり,あらゆる所で犠牲の煙が上り,進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである」(マラキ1:10)


 冒頭のマラキ書の聖句も示しているように、エホバ神はご自分のお名前が諸国民の間で尊重され、崇拝されることを望んでおられます。そして、幾つかの聖書が神のみ名を表示しています。1901年に出版されたアメリカ標準訳、アンカー、エルサレム[英語およびフランス語]、ナカル、ボーベル[いずれもスペイン語]、新世界訳その他が、テトラグラマトンを訳す際に、ヤハウェもしくはそれに類似した形を一貫して用いました。


 日本で多く用いられている新共同訳、新改訳、口語訳は神のお名前を表示していません。神のみ名を「主」や「神」に置き換え、神のみ名を聖書の中から除き去ってしまいました。


 一方、新世界訳聖書は、その新約聖書の中に、神のみ名を237回表示しています。今日私たちが手にしているマタイから啓示まで完全な形の古代ギリシャ語写本の中に,神の御名をすべての箇所に含んでいるものはありません。現存する新約聖書の写本の中に神のみ名が完全な形で表示されたものがないのに、新世界訳聖書はどのように神のみ名を表示する所を選んだのでしょうか。


 旧約聖書はもともとヘブライ語アラム語で書かれました。初期クリスチャンの時代には、ユダヤ人はヘブライ語だけでなく、当時の国際語であったギリシャ語を使っていました。


 旧約聖書ヘブライ語版には、神のみ名を表わすヘブライ語の四文字語であるテトラグラマトンが保存されていました。また、初期クリスチャンが使っていたであろう旧約聖書ギリシャ語の翻訳であるセプタギンタ訳の初期の版にも、ヘブライ語テトラグラマトンは保存されていたことが分かっています。


 それで、初期クリスチャンが霊感を受けて聖書を書き記した時、それが、旧約聖書からの引用の場合、とりわけ、神のみ名を忠実に用いたことが考えられます。


 それで、新世界訳聖書翻訳委員会はどのように神の御名を表示したのか、参照資料付き新世界訳聖書の付録の中で、こう述べています。


 「神の名がギリシャ語ΚύριοςキュリオスやΘεόςテオスによって置き換えられた箇所を知るために,霊感を受けたクリスチャンの筆者がどこでヘブライ語聖書の節や句,表現を引用しているかを確定し,次いでヘブライ語本文そのものを調べて,そこに神の名が出ているかどうかを確かめました。・・・翻訳者の立場を越えて聖書釈義の分野に立ち入ることがないよう,わたしたちはクリスチャン・ギリシャ語聖書中の神の御名の翻訳に際しては,背景となるヘブライ語聖書をいつの場合も注意深く考慮しつつ,極めて慎重に作業を行ないました。」


 つまり、新世界訳聖書翻訳委員会は旧約聖書の節や句、表現の引用である場合、ギリシャ語のキュリオスやテオスをエホバに変えたということです。


 また、『主のみ使い』という表現、『主の言葉』という表現、『萬軍の主』という称号の場合、ヘブライ語聖書の先例に倣うならば、「エホバのみ使い」、「エホバの言葉」、「萬軍のエホバ」という表現であるということが分かります。その場合、神の御名を表示しています。


 逆に,『我が主』,もしくは『我らの主』という表現が出て来る時は、いつでもエホバという言葉を用いることはしませんでした。


 しかしながら、私の個人的な意見ですが、新世界訳聖書翻訳委員会が神の御名を復元した以上に、イエスやイエスの弟子たちは聖書の中でもっと神の御名を用いた可能性もあると思います。けれども、新世界訳聖書翻訳委員会は翻訳者の立場を越えることのないように慎重に神の御名を復元しました。
冒頭の聖句も示しているようにエホバ神はご自分のお名前が重んじられることを望んであられます。新世界訳聖書翻訳聖書委員会の姿勢はその神のご意志に調和しており、翻訳者の立場からそれないように慎重に神のみ名を表示していると言えます。私たちクリスチャンも神のみ名を重んじ、日常生活の中でエホバ神のみ名を用いるべきです。


 神の御名が表示されている新世界訳聖書は、望まれるなら、エホバの証人奉仕者から無償で手に入れることができます。定価はありませんから、エホバの証人に望まれる額の寄付を手渡すこともできます。