列王第二18章・神の律法を守る重要性

アッシリアの王はイスラエルを捕らえてアッシリアに流刑に処し,彼らをハラハと,ゴザン川のほとりのハボルと,メディア人の諸都市に置いた。これは,彼らが自分たちの神エホバの声に聴き従わず,その契約,すなわちエホバの僕モーセが命じたすべてのことを踏み越えたからである。彼らは聴き従うこともせず,実行もしなかった。」(列王第二18:11,12)


 アッシリアの王は、イスラエルを捕らえてアッシリアに流刑に処しました。これは、イスラエル人が、モーセの律法契約の規定に違反したからでした。イスラエルは当時の神の律法を守らなかったので、神の是認と保護を失って災いを経験しました。


 今日のクリスチャンは、モーセの律法の下にはいません。けれども、クリスチャンも守らなければならないキリスト教の律法があります。


 たとえば、一世紀のエルサレム使徒たちと年長者たちは、クリスチャンが守らなければならない律法として、「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。」という決定を下しました。そして、それを「必要な事柄」と述べました。(使徒15:28,29)それで、クリスチャンも偶像崇拝を避け、血と淫行を避けていなければなりません。他にも幾つかのクリスチャンに対する要求があります。(コリント第一6:9,10。ガラテア5:19〜21)


 神の律法を守っていなければ、神の是認と保護を失って悲惨なことを経験することになるという警告を、古代のイスラエル人の事例は与えてくれます。


 古代の神の民であるイスラエル人は六百以上の規定からなるモーセの律法を守らなければなりませんでした。しかし、古代のイスラエル人に対する要求と比べたら、クリスチャンに対する神の律法の要求は負担が必要最小限の軽いものとなっています。


 クリスチャンは、今日の神の民に対するご要求である神の律法を守って神の是認と保護を失わないように最善の努力を払うべきです。