ヨハネ8章・真実と偽りをどのように見分けるか

「一切の事は二人か三人の証人の口によって確証されねばならない」(コリント第二13:1) 


 聖書は悪魔サタンについて、「偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,偽りの父だからです。」と述べています。今の世の中は、悪魔サタンに支配されている世の中なので、世の中には真実なニュースと、偽りのニュースがあります。私たちはどのように、真実なことと偽りを見分けたらいいでしょうか。


 聖書は、私たちが真実を確認する手段として冒頭のような原則を提示しています。(マタイ18:16)申命記19章15節にも、こう述べられています。「人の犯すどんな罪の場合であれ,何かのとがまた罪に関しただ一人の証人が立ってこれを責めるべきではない。二人の証人の口または三人の証人の口によってその件は定められるべきである。」(申命記17:6)


 聖書は罪を立証するためには、証人が必要だと言っています。真実性は最低ふたりの証人によって確証されなければならないと述べられています。(ヨハネ8:17)モーセの律法下では、ただ一人の証人では死罪を確定することはできませんでした。なぜなら、ひとりの人は偽りを言ったのかもしれないからです。二人の証人または三人の証人の口によって、死罪は確定されました。


 しかしながら、ふたりの証人の口によって死罪を確定するというモーセの律法の規定を邪悪な王妃イゼベルは、逆手にとりました。アハブ王は王の宮殿のそばにあるナボテのぶどう園を欲しいと思いました。アハブは、ナボテに,他の場所にあるもっと良いぶどう園と交換して欲しい,あるいは,お金で譲ってほしいと申し出ました。しかし、その申し出をナボテは断わりました。なぜなら,ナボテはエホバは家族の相続地を恒久的に売り渡すことを禁じていたモーセの律法に従ったからです。(列王第一21:1〜3。レビ25:23)


 しかし,アハブの妻王妃イゼベルは無理やりナボテのぶどう園を手に入れるため,二人の証人にナボテが神と王を冒とくしたという偽りの告発をさせました。それにより,ナボテは殺され、アハブはナボテのぶどう園を手に入れました。(列王第一21:9,10,13)ですから、証人の数が複数でも少ない場合、その真実性が疑われることもあるかもしれません。


 イエスの生涯について、エホバは四人の証人、つまり四つの福音書を準備されました。しかも、イエスについては、きちんとした文書の形で準備されました。ですから、私たちはイエスが本当に存在したことはもちろんのこと、彼の言葉や行動の真実性が分かります。


 それで私たちは何かのニュ−スを聞いた場合、インタ−ネットのように言った人が不明の場合、さらにニュ−スソ−スがひとつの場合はとりわけ偽りの可能性も高くなりますから、鵜呑みにするのは危険かもしれません。


 そういう場合は他の人や他のニュ−ス源も同じことを言っているか確認することができます。その際、ニュ−スソ−スが多い方がより信頼できるでしょう。そのようにして、できる限り偽りに惑わされないようにできるでしょう。


 聖書の指針に従っても、人間は何らかのニュースや情報が真実か偽りかわからないこともあるでしょう。けれども、伝道の書12章14節には「まことの神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して,それが善いか悪いかを裁かれる」と述べられています。ですから、裁かれるべき隠された事柄もいずれはすべて裁かれる時が来るということが分かります。


 神の明言された目的は必ず達成されます。(イザヤ55:11)ですから、今の事物の体制においては神の目的が達成されるのに必要な事柄はすべて真実か偽りか明らかになるでしょう。私たちはエホバの目的が達成されるのに必要な情報や、エホバに是認されるのに必要な情報などの本当に知るべき情報はエホバが明らかにしてくださることを確信できます。


 また、楽園が到来すると、復活してくる人々が人類史において秘密になっていたことをすべて話してくれるでしょう。ですから、確かに最終的に「知られないで終わる秘密はない」と言えます。(マタイ10:26)つまり、何が真実で何が偽りかすべて明らかになる時がくると言えます。


 現在はエホバがすべての情報を掌握されていることに信頼を置いて、聖書の指針に最善を尽くして従って、ニュースまたは情報が真実か偽りかを確かめていけるでしょう。(テサロニケ第一5:21)