ルカ9章・真実を語ることに関する考察

「だれでもわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,自分の栄光および父と聖なるみ使いたちの栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです。」(ルカ9:26)


 真実を語ることに関して、聖書はどんな原則を提示していますか。


 聖書は娼婦ラハブがうそを言って神に是認されたことを述べています。ラハブはイスラエル人の斥候がエリコにやってきた時に、宿舎を提供しました。ラハブはエホバに信仰を持っていたので二人の斥候をエリコの追跡者から、守りました。その時に、ラハブは家にかくまっているのに、二人の斥候がもう出て行ったといううそをつきました。ラハブはそのようにして当時のエホバの民のイスラエル人の命を守ったので、結果としてエリコの滅びの時に一緒に滅びることはありませんでした。(ヨシュア2:4,5、ヘブライ11:30,31)


 確かにラハブはうそをつきましたが、それは神の僕の命を守るためであって、エホバ神に対する信仰に動かされて行動していました。それでラハブのうそはエホバ神に是認されていました。


 アブラハムは自分の命を守るために、事実を黙っていることがありました。アブラハムは自分の命を守るために、妻のサラについて、自分の妹ですと言いました。(創世記20:2,12)これは、うそではありませんでした。実際、サラはアブラハムの異母姉妹でした。ただ、アブラハムはサラが妻であるということを黙っていました。それでアブラハムは自分の命を守るために事実を黙っていました。聖書はアブラハムを非難してはいません。


 イエスは真実と偽りについてどのように行動されましたか。イエスは、ある場合問題を起こすようなことは黙っていました。尋ねられても、巧みに答えるのを回避されました。(マタイ21:27)それで、イエスについて、「その口に欺きは見いだされませんでした」と述べられています。(ペテロ第一2:22)イエスは決してうそを言われることはありませんでした。それで、問題を起こすことはそのことについてただ黙っているという方法も聖書的であることが分かります。


 どんな偽りは避けるようにすべきですか。イエスはエホバ神との関係を否定しませんでした。さらに、冒頭の聖句のように、ご自分の弟子たちに、ご自分とご自分の言葉との関係を人の前で否定しないようにと言われました。(ルカ9:26;12:8,9)


 ですから、イエスは弟子たちに、真理を恥じることのないようにと言われたことが分かります。そうしないなら、イエスが裁きのために到来する時、報いにあずかれないと言われました。


 私たちはある真理が正しいと思っても、他のキリスト教の信者が受け入れていないと思うかもしれません。私たちはそういう場合は、神の言葉聖書に従うべきであり、真理の光を輝かせるべきです。(マタイ5:15)


 パウロは聖書から明らかになった真理についてどのような態度をとりましたか。明らかになった真理に関連して聖書から論じる手紙を長年にわたって書きました。たとえば、クリスチャンはモーセの律法を守る必要がなくなったという真理を長年、擁護し続けました。それで、パウロは明らかになった真理を一貫して隠すことなく、擁護し続けました。それで、私たちも真理に関してパウロのような態度をとるべきです。私たちは明らかになった真理についてうそを言ったり、否定したりすべきではありません。


 サタンは良いたよりの光明が輝かないようにしていると述べられています。(コリント第二4:3,4)明らかになった真理を隠そうとするのは、サタンの努力と調和していることになってしまいます。


 ラハブは神の僕を守るために確かにうそを言いました。ですから、神の民の命を守るためにうそを言うしか仕方がないという状況はありえるでしょう。けれども、神の民を守るためといっても、人を恐れて、神やイエスとの関係や真理を否定するようなうそや偽りは言うべきではないと言えます。また、アブラハムやイエスのように問題を起こす事柄に関しては、うそを言うのではなく、ただその事について口をつぐんでいることができるということが分かります。