サムエル第二13章・アマレク人の若者のうそから学ぶ

「『わたしは彼の上に立ち,まさしく彼を殺しました。』・・・それでダビデは彼に言った,『あなたが手を出してエホバの油そそがれた者を滅びに陥れることを恐れなかったとは,どうしたことか』。・・・『あなたに対する血の罪は,あなたの頭に降り懸かれ。あなたの口があなたに対して証言し,「わたしがまさしく,エホバの油そそがれた者を殺しました」と言ったからだ。』」(サムエル第二13:10,13,16)


 アマレク人の若者は、ダビデに喜ばれると思ったうそを言って殺されてしまいました。この出来事はわたしたちに多くのことを教えます。そのうそは、油そそがれた王であるサウルを殺したといううそでした。アマレク人の若者はサウル王がダビデに対して敵対していたことを知っていたのでしょう。それで、ダビデにサウル王を殺したと言えば、喜ばれると思ったのでしょう。(ローマ13:4)ところが、ダビデは冒頭の聖句のように語って、若者を油そそがれた者を殺した罪のために処刑しました。


 この出来事はうそについてどんなことを教えていますか。ダビデは、神ではなく人ですからすべてのことを知っているわけではありませんでした。ふつうは、人は他の人の言うことを信じるものです。とりわけ、当人がしたと言う行動については、人は信じるものです。


 アマレク人の若者は、自分が実際には行なっていない罪のために命を失いました。それはうそのためでした。それで、私たちは自分にとって状況が良くなると考えるうそによって命を失うことさえあるということを覚えておくべきです。


 さらに、ダビデ王にしても、神ではありませんから、物事をすべて見抜くということはできず、人間は裁きをあやまるということを意味しています。ダビデは、当時の政治の権威でした。このことは政治の権威を裁きを誤ることを示しています。そして、人はうそを言った結果を甘受しなければなりません。


 この出来事が教えるもうひとつの教訓は何ですか。この出来事は、ダビデがたとえ不忠実になっていても油そそがれた王のサウルに対して敬意を払うことを期待したということも示しています。(サムエル第二24:10)ダビデ自身、油そそがれた者でしたが、サウル王から追いかけまわされていた時、二度サウル王を殺せる機会がありましたが、サウル王に手を出そうとはしませんでした。そのようにして、不忠実になっていたにもかかわらず、他の油そそがれた者に対して敬意を示しました。


 ダビデも判断の間違いをしました。しかし、聖書はダビデの判断の誤りを非難してはいないようです。それで、このことは、エホバ神も油そそがれた者がたとえ不忠実になっても敬意を払うことを期待されているということを示しているようです。


 今日、油そそがれた王はいませんが、聖霊で油そそがれたクリスチャンたちが存在します。彼らは、エホバ神に選ばれて天への召しを受けています。聖書は彼らの中の小さい者に対しても敬意を払うことを求めています。


 イエスは次のように言われました。「あなた方はこれら小さな者の一人をも侮ることがないようにしなさい。あなた方に言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を常に見守っているのです。」(マタイ18:10)


 地上にいる天的希望を持つクリスチャンの小さな者に天のみ使いたちがいつも仕えており、それらのみ使いたちはいつもエホバ神と接しています。小さな者に対する敬意の欠けたふるまいをみ使いたちはすぐにエホバ神に報告できるということでしょう。


 私たちは自分が天的希望あるいは地的な希望を持つクリスチャンであっても、天的希望を持つクリスチャンに対して敬意を払うようにしたいものです。(詩篇20:6;105:15)