コリント第一13章・今日奇跡やいやしは神の後ろ盾の証拠ですか

「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。」(コリント第一13:8 新共同訳)


 現代においては、キリスト教世界の僧職者が執り行う礼拝の際に、信仰治療の行なわれる場合があります。キリスト教以外の宗教では、ブードゥー教の祭司、祈祷師、まじない師などが、やはりいやしを行います。彼らは多くの場合、魔術や占いを利用します。心霊治療者の中には、自分たちの治療法は宗教とは一切関係がないと言う人々もいますし、またキリストの名によっていやしを行なう人もいます。彼らの奇跡やいやしは彼らがまことの神の後ろ盾を得ている証拠でしょうか。


 奇跡を行なう能力はまことの神以外の源から、もたらされる場合があります。例えば、モーセが、イスラエル人がエホバに犠牲をささげられるよう荒野に出かける許しを得るためにエジプトのファラオの前に出た時のことがあります。モーセは神の後ろ盾を得ている証拠として、その杖を投げ出すと、その杖は一匹の大きな蛇になりました。しかし、その後、魔術を行なうエジプトの祭司たちも自分たちの杖を投げると、それらの杖もまた蛇になりました。(出エジプト7:8〜12)


 モーセの奇跡は神の力によって行なわれました。では、エジプトの祭司たちはだれの力によってその奇跡を行なったのでしょうか。それは、まことの神の力ではありませんでした。それは、まことの神エホバの敵対者である悪霊の力によるものに違いありません。ですから、単に奇跡を行なうことができることは、その人がまことの神の後ろ盾を得ている証拠とはなりません。


 確かに、イエスや一世紀のクリスチャンは、神の後ろ盾がある証拠として、いやしや奇跡を行なうことができました。しかしその目的は、設立されてまもないクリスチャン会衆が本当に神からのものであることを証明することでした。(ヘブライ2:3,4)しかし、いったんそのことが十分確立されたならば、奇跡やいやしはその目的を遂げて必要なくなりました。


 それで、冒頭の聖句のように奇跡やいやしの賜物は、その目的が成就した時になくなってしまうことが予告されていました。(コリント第一13:8)


 そして、イエスは、イエスの名によって悪霊を追い出したり、奇跡を行なう者たちを、ご自分の代表をしていない不法を働く者たちとして、退ける場合があると次のように言われました。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行なったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタイ7:21〜23 新共同訳)


 それで、イエスの名によって奇跡を行なったり、いやしを行なったりすること自体は、イエスが後ろ盾となっておられることを証明するわけではありません。


 かえってイエスは終わりの時に次のようになると言われました。「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタイ24:24 新共同訳)


 それで、今日、大きなしるしや不思議な業は、かえって偽メシアや偽預言者である証拠であると言えるでしょう。今日の奇跡やいやしは、まことの神以外の源、すなわち悪霊を源としていると言えます。
 

 今日、真のクリスチャンは、奇跡やいやしを行なう力によって見分けられるのではありません。イエスはご自分の弟子たちに、地の果てにいたるまで、ご自分の証人となるという務めを与えられました。それで、真のクリスチャンは、イエスの証人となるという務めを行なっていることによって見分けられます。(使徒1:8)


 また、本当にイエスを信じているなら、私たちは真のキリスト教の証拠として愛があるかどうかを見ることができます。(ヨハネ13:35)


 私たちは聖書を判断材料にして、今日の奇跡やいやしによって惑わされ、まことの神から引き離されないようにする必要があります。