ポルノ―無害な気晴らしにすぎませんか

 以下の記事は、目ざめよ!2002/7/8号「聖書の見方 ポルノ―無害な気晴らしにすぎませんか」からの抜粋です。

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 今日,ポルノはまさに広く浸透し,現代社会の大部分に受け入れられている感があります。(省略)
中には,マンネリ化した結婚生活に活気を与える方法だとして,ポルノを擁護する人もいます。(省略)しかし,すべての人がそれに同意しているわけではありません。ポルノが種々の有害な結果や態度を招いた例は少なくありません。ポルノとレイプの関係,さらにはポルノと女性や子どもに対する他の暴力行為との関係を示唆する人もいます。


 有名な連続殺人犯テッド・バンディは,「暴力的なポルノに対する強い欲求」があったことを認め,こう言っています。「こういう状態は人が見てすぐに分かるものではない。深刻な問題とされるわけでもない。……しかし,この種の好奇心があると……性的暴力へと突き進むことになる。その好奇心は次第に高まってゆくものであり,そのことはいくら強調してもしすぎることはない。それは,短期間では終わらない」。

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          聖書は性に関して率直に述べている

 
 聖書は性的な事柄を包み隠さずに扱っており,恥ずかしいこととしてはいません。(申命記 24:5。コリント第一 7:3,4)ソロモンは,「あなたの若い時の妻と共に歓べ。……その乳房が常にあなたを酔わせるように」と諭しています。(箴言 5:18,19)


 聖書には性関係についての明確な助言や諭しが与えられており,どのような範囲内で性関係を持つことができるかということも示されています。結婚関係外の性行為は禁じられています。いかなる形の倒錯した異常な性行為も禁じられています。―レビ記 18:22,23。コリント第一 6:9。ガラテア 5:19。


 これらの制限内であっても,節度と敬意が求められます。使徒パウロは,「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです」と記しています。(ヘブライ 13:4)この諭しはポルノが意図するところ,およびポルノの発するメッセージとは全く対照的です。


              ポルノは性をゆがめる


 ポルノは性関係を,誉れある結婚における男女間の愛の麗しく親密な表現として描くのではなく,むしろ性行為を卑しめ,ゆがめます。無神経で倒錯した性が,刺激的で望ましいものとして描かれています。他の人にほとんど,あるいは全く関心を払わない独りよがりな満足が強調されているのです。
 

 女性も男性も子どもも,性的な満足を与えるためにだけ存在する物として描かれます。「美しさは体形で計られ,現実離れした期待を生じさせる」と,ある報告は述べています。


 別の報告もこう結論づけています。「女性を,個性のないもの,いつも求め待っているもの,男性のためのむなしい性の遊び道具,金銭的な利益や楽しみのために脱いだり肌を出したりするものとして描くことは,女性を決して平等な存在,品位のある存在,また人間性のある存在として描くことではない」。


 それとは逆に,愛は「みだりな振る舞いをせず,自分の利を求め(ない)」,とパウロは書いています。(コリント第一 13:5)聖書は男性が,「自分の体のように妻を愛す(る)」こと,妻に「誉れを配(する)」こと,そして女性を単に性的満足を得るための物と見るべきでないことを強く勧めています。(エフェソス 5:28。ペテロ第一 3:7)


 他の人の性的に露骨な姿をいつも眺めている人は,男性であれ女性であれ,みだりな振る舞いをしていない,と本当に言えるでしょうか。その人は本当に誉れと敬意を払っているでしょうか。ポルノは,愛ではなく,自己中心的で利己的な欲望を育てているのです。


 別の要素もあります。他の不健全な刺激の場合と同様,最初の高揚した気分も,やがてありきたりで月並みのことになってしまうのです。ある著述家はこう言っています。「[ポルノを見る人は]そのうちに,いよいよ露骨で異常なものを求めるようになる。……相手にますますとっぴな性行動をさせ,……本当の愛情を表現する彼ら[自身の]能力を低下させることがある」。このようなことが無害な気晴らしに思えますか。しかし,ポルノを避けるべき重要な理由は,ほかにもあります。


                  聖書と欲情

 今日,多くの人は,性的な空想にふけるのは悪いことでも危険なことでもないと思っていますが,聖書は違う見方をしています。聖書は,思いに取り入れるものと行動の仕方が元々深くかかわっていることを明確にしているのです。


 クリスチャンの弟子ヤコブはこう指摘しています。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます」。(ヤコブ 1:14,15)イエスもこう述べています。「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」。―マタイ 5:28。


 ヤコブとイエスが共に指摘しているように,人間は内面の欲望に駆られて行動します。その欲望は,刺激され勢いがつくと,やがて人にしっかり取りついて離れなくなる恐れがあります。人に取りついてしまったものは非常に振り払い難く,ついには人を行動へと駆り立てることもあります。ですから,自分の思いに取り入れるものは,わたしたちのその後の行動に強力な影響を及ぼし得るのです。


 性的な空想は,神への崇拝をじかに妨げることがあります。そのためパウロはこう記しています。「ですから,淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,……あなた方の肢体を死んだものとしなさい」。―コロサイ 3:5。


 ここでパウロは,性的欲情を強欲と結びつけています。 強欲とは自分が所有していないものに対する節度のない欲望で,偶像礼拝の一形態です。なぜでしょうか。強欲な人は,神をはじめ他の何よりも,自分の欲しいものを優先するからです。(省略)


               ポルノは人を堕落させる

 「何であれ貞潔なこと,何であれ愛すべきこと,何であれよく言われること,また何であれ徳とされること……,そうしたことを考え続けなさい」と,聖書は説き勧めています。(フィリピ 4:8)自分の目と思いをポルノで養う人は,パウロの説き勧めを退けているのです。


 ポルノは,最も親密で個人的な行為を恥じらいもなく人目にさらすわけですから,慎みを欠いています。人々を卑しめ,人間性を低下させるわけですから,憎むべきものです。優しさや気づかいを深めることがないわけですから,愛に欠けています。ポルノは利己的な欲情を高めるにすぎません。


 不道徳でみだらな行為を気ままに描くポルノは,「悪を憎(む)」気持ちを培おうとするクリスチャンの努力を弱め,阻みます。(アモス 5:15)また,罪を犯すことに力点が置かれるのでパウロがエフェソス人に与えた次の励ましに全く反します。「聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また,恥ずべき行ない,……卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません」。―エフェソス 5:3,4。


 ポルノは無害であるなどとは言えません。人を食いものにし,堕落させるものです。夫婦関係を損ない,性的親密さの自然な表現を,のぞき趣味的な行為へとゆがめてしまう可能性があります。


 ポルノは,それをのぞき見る人の思いと霊性を毒します。利己的で貪欲な態度を助長し,他の人を単なる自分の欲情を満足させる物と見るように教えます。そして,良いことを行ない清い良心を持とうとする努力を弱らせます。さらには,最も重要なこととして,神との霊的関係を損ない,破壊することさえあります。(エフェソス 4:17‐19)

 
 まさしく,ポルノは避けるべき災いなのです。―箴言 4:14,15。