詩篇139編・目に見えない神をなぜ信じることができますか

「わたしはあなたをたたえます。なぜなら,わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。わたしの魂がよく知っているように,あなたのみ業はくすしいのです。」(詩篇139:14) 


 神は一度も見たことがないので、信じないという人がいます。見えるものしか信じないというわけです。では、私たちはなぜ目に見えない神の存在を信じることができるのでしょうか。考えてみましょう。


 私たちは目に見えなくとも、確かな理由があるので、その存在を信じているものがあるのではないでしょうか。例えば、私たちの呼吸している空気はどうでしょうか。空気は目に見えませんが、風が吹いた時に、木から枯葉が落ちるのを見たり、旗がはためいたりするのを見て、私たちは空気の存在を認めるのではないでしょうか。空気は目には見えませんが、空気が作用した結果を認めることができるので、空気の存在を信ずべき十分の理由があると言えます。


 また、重力を見ることはできませんが、何かを落とすと上ではなくて、下に落ちていくので、重力が存在する証拠を見ることができます。また、香りは見えませんが、鼻でかぐことができます。音波は見えませんが、耳で感知できます。


 ですから、私たちは目に見えなくても、それが作用した結果は見たり、感知したりすることができます。そのように確かな証拠があれば、私たちは目に見えなくても、その存在を認めているのではないでしょうか。


 ですから、神は目に見えなくとも、神が働いた結果を見る時に、私たちは神の存在を認めることができるのではないでしょうか。では、見えない神が存在することを示すどんな証拠があるでしょうか。


 私たちはカメラやコンピュターを見る時、それが、すぐれた設計者、メーカーによって造られたことを認めます。では、それよりはるかに優れた機能を持つ目や人間の頭脳については、何が言えるでしょうか。


 例えば、人間の目は、完全自動で立体画像,オートフォーカス,連続撮影,天然色のビデオカメラに例えられてきました。もし、完全自動、立体画像、オートフォーカス、連続撮影、天然色のビデオがあれば、私たちはそのメーカーをたたえるのではないでしょうか。それが、ひとりでに生じたとは考えないでしょう。


 また、脳が強力なコンピューターに例えられるのをお聞きになったことがあるでしょう。しかし、最近の発見は、そのような比較が実際にはおよそ不十分であることを示しています。


 マサチューセッツ工科大学の一科学者はこう述べました。「今日のコンピューターは、見る、話す、動く、常識を働かせるといった点で、4歳の子供の能力にも及ばない。……最も強力なスーパーコンピューターの情報処理能力も,カタツムリの神経系と同程度と見積もられている。」


 それで、人間の目や脳は、人間の設計するカメラやコンピューターよりはるかに優れています。私たちはカメラやコンピューターが、すぐれた設計者によって造られたことを認めるのであれば、それよりはるかに優れた機能を持つ人体には、さらにすぐれた設計者がいることを認めることができるのではないでしょうか。


 冒頭の聖句のように、詩篇作者は人間の体が畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られていると述べました。つまり、くすしく造られている人体が神のみ業であることを認めています。私たちは神が目に見えなくても、目に見える神が造られたものによって、神が創造の業を行なわれたことを知ることができます。神が働かれた結果を見ることによって、目に見えない神の存在を信じることができます。