詩篇78編・霊魂不滅の教理の間違い(新共同訳)

「神は彼らの生涯をひと息のうちに、彼らの年月を恐怖のうちに断とうとされた。・・・神は御心に留められた。人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを。」(詩篇78:33,39 新共同訳)


 聖書は、エホバ神はその過分のご親切によって人間に復活という希望を差し伸べてくださっていることを示しています。しかし、その復活という希望は、人間に永遠に存続する霊魂のようなものがあって意識が死後も存続するのであれば、意味をなさないことになります。


 それで、聖書の言葉は死後も永遠に存続する霊魂があると述べているかどうかを確かめるのは必要なことです。


 詩篇78編は、霊魂不滅の教理の間違いを示しています。33節では、人の生涯がひと息のうち終わってしまうと述べられています。また、39節では、人間は肉にすぎないことを述べています。また、人間は風のようなものであると述べています。吹いた風は、過ぎ去ってしまい再びそこに戻ってきません。そのように人間は、つかのまの存在であることを新共同訳聖書は述べています。つまり、人間の肉体が死ぬと、それで意識は断たれ、過ぎ去って終わってしまうことを述べています。


 同じ詩篇78編33,39節を新世界訳は次のように訳しています。「それで,[神]は彼らの日々をあたかも呼気でもあるかのように終わらせ,彼らの年を騒乱によって[終わらせた]。・・・また,彼らが肉なる者であること,霊は出て行くが,帰っては来ないことを思い出されるのであった。」


 それで、新世界訳も、33節で、人の生涯が呼気のようにはかないもので、終わることを述べています。39節では、新共同訳で「風」と訳された語を新世界訳は、「霊」と訳しています。この語は、ヘブライ語のルーアハです。新世界訳は脚注の中でもう一つの訳語として「風」を挙げています。


 ヘブライ語のルーアハは、「風」や「霊」など見えなくても動いて存在するものを意味する語で訳されています。このルーアハ「霊」は幾つかの意味があります。しかし、この「霊」という語は、不滅の霊魂のようなものではありません。


 なぜなら、ヨブ34章14,15節には、新世界訳で「もし[神]がその心をだれかに留め,[もし]その人の霊と息をご自分に集められるなら,すべての肉なるものは共々に息絶え,地の人も塵に返る。」とあります。


 この聖句では、ルーアハの変化形が「霊」と訳されています。その霊は息つまり呼吸によって支えられています。つまり「霊」ルーアハと、呼吸が続く限り人に働く生命力という意味であることが分かります。ヨブ34章14,15節によると、人の生命力が人から失われると人は息絶え、塵に返ることになります。
それで、詩篇78編33節の霊が出て行くと、帰って来ないというのは、人から生命力がいったん失われるとその生命力を人間に回復させることは不可能であることを意味しています。つまり、基本的には、人は死ぬとそれで命と意識が終わってしまいます。エホバ神による復活が行われるのでなければ、人は死ぬとそれで終わりであることを新世界訳聖書は示しています。


 詩篇78編の聖句は、新共同訳も新世界訳も意識が死後も存続しないこと、死ぬとそれで終わりであることを示しています。人の命は呼吸が続いており、人間の肉体に生命力が働いている間だけ存続します。それで、聖書は死んでも意識あるいは霊魂が存続し続けるとは述べていません。霊魂不滅の教理が間違っていることが分かります。