詩篇139編・神を信じるのは理にかなったことですか

「わたしはあなたをたたえます。なぜなら,わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。わたしの魂がよく知っているように,あなたのみ業はくすしいのです。」(詩篇139:14)


 多くの人は、宇宙と生命は偶然の大爆発と進化によって生じたと考えています。一方、知性を持つ創造者の存在を信じる人もいます。どちらの見方の方が理にかなっているでしょうか。


 多くの人は、生命が偶然に生じているのではなく、目的のある設計がなされていると考えています。例えば、リハイ大学の生化学準教授マイケル・ビヒーは,「細胞を研究する,すなわち分子のレベルで生命を研究する幾多の努力の集積から聞こえてくるものは,『意図して設計されたものだ!』という,大きく,はっきりした,鋭い叫びである。」と述べました。それで、ビヒー教授は分子のレベルで生命を研究して生命は意図して設計されたものだという結論に至りました。


 それでは、生物の基本構成要素であるDNAについて考えてみましょう。DNAは、デオキシリボ核酸の略称です。そして、細胞生物の遺伝物質であり、青写真やレシピに例えることができます。なぜならその中に個々の人の体を生み出すためのすべての情報が収められているからです。


 DNAには、どれほどの情報が収められているでしょうか。ある資料によれば、ネクレオチドと呼ばれる基本単位をアルファベットに変換したなら、「普通の本100万ページ以上になります。


 たいていの生物では、DNAはひも状の染色体に含まれており、染色体は細胞の核に収められています。核の大きさは平均で直径5ミクロンほどです。個々の人の体を生み出したすべての情報が、顕微鏡では見えない小さなものの中にあるわけです。


 ある科学者は的確にも、生物体には「群を抜いてコンパクトな情報保管検索システム」があると述べています。


 私たちは日常、情報を保管するためにコンピュターのメモリやDVDを使っています。記憶媒体はコンピュターの進歩に伴って年々大容量になり、またますます小型化しましたが、人体のDNAには、全くかないません。


 しかし、DNAのすべてが分かっているわけではありません。「発見のたびに、新たな複雑さが明らかになる」とニュー・サイエンティスト誌(英語)は述べています。


 こうした完璧な造りや仕組みを全くの偶然によるものと考えるのは理にかなっているでしょうか。的確な符号体系で書かれた100万ページの高度な技術マニュアルがあったとしたら、その本が盲目的な偶然によってできあがったと考えるでしょうか。しかも、その本が高性能の顕微鏡を使わないと読めないほど小さかったとしたら、どうでしょうか。


 さらに、その本の中に自己修復し自己複製する精巧な機械の作り方が正確に記されているとしたらどうでしょうか。しかも、その機械の幾十億もの部品がちょうど正しいタイミングで正しい方法で組み立てられるようになっているとしたら、そのマニュアルの本についてどう考えるでしょうか。


 そうしたマニュアルがたまたま生じたという考えは、思いに浮かぶことすらないのではないでしょうか。かえってその本を造った人の技術に驚嘆するのではないでしょうか。


 冒頭の聖句にあるように詩篇作者は自分の体が、「畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られている」と感じて、神をたたえざるをえない気持ちになりました。私たちは詩編作者と同様に人体について考察する時に、それが神のみ業であることを認めざるを得なくなり、神のみ業に驚嘆し、神をほめたたえたいと思うのではないでしょうか。


 かつて無神論を標榜していた英国の哲学者アントニー・フルーは、細胞内の機能に関する最近の研究を検討した後、次のように述べました。「生命を生み出すのに必要な仕組みの信じがたいまでの複雑さは、・・・知性がかかわっていたに違いないことを示している。」そして、考えを全く変え、現在は神を信じています。


 生命は単なる盲目的な偶然で生じることはありません。それは、創造者なる神によって設計された考えるのが理にかなっていると言えます。