詩篇146編・人間の霊とは不滅ですか(新共同訳)

「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」(詩篇146:4)


 上記の聖句で、人間の霊とは何を意味していますか。それは、人間の肉体とは別の不滅の霊魂のようなものなのでしょうか。そうではありません。この聖句は霊が人間から去ってしまえば、その時に人間の思いが滅びてしまうことを述べています。ですから、人間の死とともに、人間の意識は終わってしまうことが分かります。


 それで、人間の霊とは、人間の体に宿って、人間の思いが働くようにさせているものです。人間の思いは人間の脳に根ざしています。それで、人間の霊とは、人間の脳を活かしている生命力を意味しているでしょう。


 詩篇146編では、霊が消えうせてしまうことを霊が人間を去るというふうに表現しています。しかし、それは人間の霊が人間の体から抜け出して存続することを意味しているわけではありません。霊が人間を去れば、人間の思いは滅びてしまうのですから、霊は人間の体に宿っている間だけ存在して人間を生かしているものです。人間の脳に生命力が働かなくなった時に、人は意識が終わってしまうことを詩篇146編4節は述べています。


 詩篇143編7節でも、詩篇作者ダビデの祈りは人間の霊が不滅でないことを示しています。「主よ。早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。」


 それで、ダビデは神が祈りに早く答えてくださらなかったので、自分の霊は絶え入りそうで、死にそうだったということを語っています。それで、詩篇143編7節でも、霊とは人間の不滅の部分ではありません。人間の霊とは人間の死とともに無くなってしまうものです。
 

 詩編143編7節で、ダビデは、エホバが御顔を隠しておられたので、ダビデの生命力は、ダビデから消えうせてしまいそうだったことを語っています。


 霊とはヘブライ語でルーアハです。この語は基本的には、風という訳語が当てられます。またルーアハは見えなくても、存在するものを意味しています。聖書の中のルーアハには、見えなくても存在するさまざまなものを表わす訳語が当てられています。しかし、人間の霊という場合に、それは人間の不滅の部分を意味していません。ある場合、人間の霊とは、人間が生きている間、人間に働いている生命力を意味しています。


 新共同訳では、ルーアハを風とか息と訳すことがあります。風や息も、人の目に見えませんが、存在しているものだからです。例えば、詩編78編39節では、「神は御心に留められた。人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを。」と訳して、ルーアハを風と訳しています。同じ聖句を新世界訳では、「また,彼らが肉なる者であること,霊は出て行くが,帰っては来ないことを思い出されるのであった。」と訳しています。


 新世界訳では、人間の霊つまり生命力が出て行くと帰らず人が死んでしまうことを言い表しています。しかし、新共同訳の詩編78編39節の訳し方でも、人間が肉に過ぎず、不滅ではなく、風のように一時的に存在する者であることを言い表しています。


 また、詩編104編29節では、新共同訳は、「御顔を隠されれば彼らは恐れ息吹を取り上げられれば彼らは息絶え元の塵に返る。」と訳していて、ルーアハを「息吹」と訳しています。同じ聖句を新世界訳は、「あなたがみ顔を覆い隠されるなら,彼らはかき乱されます。あなたがその霊を取り去られるなら,彼らは息絶え,その塵に戻って行きます。」とルーアハを「霊」と訳しています。新世界訳は、ここでも、人間の霊すなわち生命力が取り去られるなら、人が死んでしまうことを正しく述べています。しかし、新共同訳の訳し方でも、人間が不滅ではなく、人が呼吸をしなくなるなら、土の塵に戻り、無存在になってしまうことが分かります。


 ですから、人間には、人の死後も存続する霊的な部分はありませんし、人の死後、意識が存続することもありません。人は死ぬと無存在になります。人間を生かしているのは、霊つまり生命力です。


 人間は不滅の存在ではありません。わたしたち人間の死後の希望は神がわたしたちを再創造してくださること、つまり復活させてくださることに依存しています。