マタイ24章・大いなるバビロンの外の神の民はどうすべきか

「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。」(マタイ24:15,16)


 聖書は、将来、野獣の像と十本の角が大娼婦を攻撃すること、また北の王が南の王に対して最終的な総攻撃を加えることを予告しています。(啓示17:16。ダニエル11:40)その最終的な総攻撃の前に大いなるバビロンの領域にいる人は、できるだけ早くそこから出る必要があります。(啓示18:4)


 しかし、大いなるバビロンの外にいる神の民はどのように行動すればいいのでしょうか。冒頭の聖句にあるようにイエスは荒廃をもたらす嫌悪すべきものが、聖なる場所に立つのを見かけるなら、山に逃げ始めなさいと言われました。(マタイ24:15)なぜなら、「その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく」、「二度と起きないような大患難があるからです。」(マタイ24:21)


 「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が、聖なる場所に立つというのが、大患難の始まりの兆候となるでしょう。荒廃をもたらす嫌悪すべきものとは、一世紀においては、ローマ軍を意味していました。一世紀のクリスチャンはそのように理解した証拠があります。


 では、今日において、嫌悪すべきものとは、何を意味しているのでしょうか。嫌悪すべきものとは、偶像を意味しています。(エゼキエル7:20;20:7,8)ですから、これは、野獣の像、すなわち偶像であり、神の民も攻撃して荒廃をもたらすことになる第二次世界大戦後に設立された国際連合を表わしています。(啓示13:15。ダニエル11:41)「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」とはダニエル11章31節に登場します。荒廃をもたらす嫌悪すべきものは諸国家によって設立されてから、北の王になるのでしょう。


 荒廃をもたらす嫌悪すべきものが、聖なる場所に立つというのはどういう状況を意味しているのでしょうか。聖なる場所とは、何を意味していましたか。聖なる場所とは、古代においては神殿やエルサレムや他の場所などのエホバ神に神聖な奉仕をささげられる神聖な場所を意味していました。(レビ16:2。詩篇28:2。ヘブライ9:1,2。ヨエル3:17)


 しかし、西暦70年に、エホバの神殿とエルサレムは、ローマ軍に滅ぼされてしまいました。そして、古代のエホバの神殿は今日もう存在していません。エルサレムのエホバの神殿があったところには、イスラム教の寺院が立っています。西暦70年以降、エルサレムは神の民にとって聖なる場所ではなくなりました。


 ですから、今日聖なる場所で表わされているものは、エホバ神のみ座のある天、天的希望を持つ者や大群衆がエホバ神への崇拝や奉仕を捧げる霊的な領域だと言えます。天に嫌悪すべきものは立つことはできません。しかし、天的希望を持つ者や大群衆が神への奉仕する場所は、確かに嫌悪すべきものが崇拝の対象としては立ってはならない所であると言えます。


 北の王がエホバの民に対して、神への崇拝や奉仕ではなく自分に対する崇拝を要求するようになるならば、荒廃をもたらす嫌悪すべきものが聖なる場所に立っていると言えるでしょう。例えば北の王がエホバの民に対して、その崇拝に関して指示をして、神の民が公の大会や集会、野外奉仕のすべてについてやめるようにと指示したり、北の王のために武器をとって戦うように要求したりするようになるならば、それは立ってはならない聖なる場所に北の王が立っているということになるでしょう。


 さらには、ルカ21章20節によると、不忠実なエルサレムで予表されていたもの、つまりアメリカ合衆国が、野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら、逃げるようにとイエスは指示しておられるようです。
ダニエル11章36節以降の「その王」とは、「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」を表わしているでしょう。


 マタイ24章の中でイエスはダニエル書に同じことが言及されていると言われました。(マタイ24:14)それはどこでしょうか。ダニエル11章36節には、北の王が自分を高め、自分を大いなる者としてあらゆる神の上に高めること、神々の神たる者に向かって驚くべきことを語ることが預言されています。


 北の王があらゆる神の上に自らを高めるというのは、おそらく北の王があらゆる宗教を統制することを意味しているのでしょう。さらに、北の王はあらゆる人に対して自らを神として崇拝すること、すなわち自らのために武器をとって戦うようにということを要求するようになるのかもしれません。北の王は、神々の神たる者に向かって驚くべきことを語るのですから、北の王は、エホバの民に対しても、あたかも神のように指示を与えようとするのでしょう。それで、おそらくダニエル11章36節にある北の王の行動が、荒廃をもたらす嫌悪すべきものが聖なる場所に立つという行動を示唆しているのでしょう。


 山に逃げるようにという命令は誰に与えられたものでしょうか。もし、聖なる場所に立つということを上記のように解釈することができるのあれば、山へ逃げなければならないのは南の王すなわち大いなるバビロンの領域の神の民だけではなく、その他の北の王の領域にいる神の民も逃げる必要があるということになります。すなわち全世界の神の民は、大患難の直前に山に逃げなければならないということになります。


 聖書は全世界の神の民のために書かれました。マタイ24章9節によると、イエスは神の民について「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」と予告されました。ですから、イエスはここであらゆる国民の中に住んでいる神の民に対して語っておられたことが分かります。北の王と南の王との間で緊張が高まるならば、神の民は北の王でも南の王でもどちらの陣営の国に住んでいても中立の立場のゆえに世界中で難しい立場に立たされることになるでしょう。


 それで嫌悪すべきものが聖なる場所に立ったならば山に逃げるようにというイエスの命令は、世界中のエホバの民に当てはまるでしょう。

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