使徒2章・聖霊は人格的なものですか(新改訳)

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」(使徒2:4)


 三位一体を信じている人は、聖霊を人格的なものと考えて聖霊に対して祈ったり、崇拝したりしています。聖霊は人格的なものでしょうか。もし、聖霊が人格的なものでなければ、聖霊を崇拝することは間違っています。それは、やはり、至高の神以外のものを崇拝する偶像崇拝になるでしょう。


 聖霊に言及している幾つかの聖句は、聖霊が人格的なものであることを示していると思えるかもしれません。例えば、聖霊は、教えたり、思い起こさせたり、証ししたり、語ったりすると述べられています。そして、イエス聖霊を新改訳では、「助け主」と呼びました。(ヨハネ14:16,17,26; 15:26; 16:13)
 

 しかし、聖霊がどんなものであるかを理解するために、聖書全体を考慮しなければなりません。冒頭の聖句のように、五旬節の日に、エルサレムのある一室に集まっていた人々は、「聖霊に満たされ」たと述べられています。(使徒2:4)また、他の多くの聖句も、聖霊で満たされることについて語っています。


 例えば、バプテストのヨハネは、「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」ました。(ルカ1:15)「エリサベツは聖霊に満たされた」と述べられています。(ルカ1:41)また、 「父ゼカリヤは、聖霊に満たされて,預言して言った。」(ルカ1:67)、 「聖霊に満ちたイエス」(ルカ4:1)、 「ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。」(使徒4:8)、「一同は聖霊に満たされ、みことばを大胆に語りだした。」(使徒4:31)、 「信仰と聖霊とに満ちた人」(使徒6:5)、「 聖霊に満たされていたステパノ」(使徒7:55)、「聖霊に満たされる」(使徒9:17)、「聖霊と信仰に満ちている人」(使徒11:24)、「パウロは,聖霊に満たされ」(使徒13:9)、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒13:52)と記されています。


 何かで満たされる場合、それは、水や空気や力のような非人格的なものです。このことから、聖霊は何か非人格的なものだと言えるのではないでしょうか。
 

 イエスは、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。(ルカ11:13)それで、聖霊とは、天の父なる神が下さるものです。下さるのですから、何か非人格的なものだと言えるのではないでしょうか。また、「イエスが、・・・この聖霊をお注ぎになったのです。」 (使徒2:33) 、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」(使徒10:45)と記されています。また、神はイエスに、「聖霊と力を注がれました。」(使徒10:38)例えば、油を注ぐと言うように、注がれるものは、普通、非人格的なものです。


 「わたしたちのうちに宿る聖霊」と記されています。(テモテ第二1:14)聖霊は人のうちに宿るのですから、非人格的なものではないでしょうか。


 また、バプテストのヨハネは、イエスについて、人々に「聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と述べました。(マタイ3:11) そして、そのことを、自分が人々に水のバプテスマを授けることと対比しました。 また、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。」と記されています。(使徒11:16)バプテスマの水が非人格的なものなのですから、対比されている聖霊も非人格的なものに違いありません。このように、これらの聖句は、聖霊が非人格的なものであることを示唆しています。


 マリアは「聖霊があなたの上に臨み,いと高き方の力があなたをおおいます」とみ使いから言われました。(ルカ1:35)ここでは、聖霊が、いと高き方の力と並行に記述されています。ですから、聖霊は神を源とする非人格的な力でしょう。
 

 では、イエスはなぜ聖霊があたかも人格的なものであるように語られたのでしょうか。聖書では、いろいろなものが擬人化されることは珍しくありません。例えば、知恵には、「子どもたち」がいると言われています。(ルカ7:35)知恵に子どもがいるとしても、知恵は人格的なものではありません。また水と血も「あかしする」と言われています。(ヨハネ第一5:6〜8)あかししても、水と血は人格的なものではありません。これらの知恵、水、血などは、明らかに非人格的なものです。擬人化されて表現されているに過ぎません。ですから、イエスも同様に聖霊を擬人化して語られたわけです。
 

 聖霊の実体を正しく理解するためには、聖霊について言及している聖句すべてを考慮しなければなりません。聖句すべてを考慮するならば、聖霊は非人格的なもので、神がご自分のご意志を成し遂げるために用いられる強力な力であることが分かります。


 それで、イエスは、聖霊が人格的なものであるように語られましたが、イエスは人が聖霊に動かされて、語ったり、証したりでき、聖霊に思いを導かれて教えられたり、昔の記憶を思い起こしたりできることについて語っておられたに過ぎませんでした。そのようにして聖霊は、クリスチャンの「助け主」として働きますが、それは、聖霊が人格的なものであることを意味してはいません。


 聖霊は、三位一体の一つの位格ではなく、神のご意志を行なわれる際に用いられる非人格的な力であることが分かります。それで、聖霊自体を崇拝したり、聖霊に対して祈ったりするのは、やはり偶像崇拝になるでしょう。私たちは聖霊を崇拝するのではなく、唯一まことの神を崇拝しましょう。また、神に神の聖なる力である聖霊を祈り求めて力を込めて神のご意志を行い神を崇拝していきましょう。